hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

両親のガンが重なり、精神的に辛いです。

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

先日、母が胃がんの宣告を受けました。
母は3年前に肺がんになり、現在も経過観察中です。
父も4年前に大腸がんになり手術をして、2年前にも局所再発の手術をしました。

こう何回も両親のガンが重なり、なってしまったものは仕方ないのかもしれませんが、なぜ両親がこんな辛い目に合うのか、納得ができず、「なんでこんなガンが重なるのかな。しんどいな。」という母に言葉をかけることができませんですた。

両親は食生活もきちんとしており、適度な運動もして、性格はまじめで優しく、そんな両親がなぜ何回もがんになるのか、周りと比較してしまい、精神的に辛いです。

私は結婚していますが子供ができず、孫の顔を見せてあげることができませんでした。そんな普通の幸せを体験していない両親が、なぜ病気でも辛い目に合うのか、がんの人が多いと言いますが、身内や周りでがんの人はいません。

こんな気持ちで生活するのはダメだとわかっていますが、どうすればいいのかわかりません。他人への嫉妬や嫉みがあるのが正直な気持ちです。
ただ、そんなことを人には言えませんので、ここに相談させて頂きました。

どのように気持ちを整えたらいいですか?教えて下さい。
宜しくお願い致します。

2023年1月27日 10:30

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人をしあわせにむかわせるように生きることで善玉菌は増える

癌は癌という病ですが、癌イコール死ではありません。
癌を治すことに誇りを持って活動されている方限定でお願いするしかありません。
ある和尚さんはお嬢さんが十代のころに癌にかかってしまい、娘のためにも今死ぬわけにはいかない!と強い決心で娘のために!絶対に治そう!という決意を持たれました。結果、その方は完治。✨
またある女性は健康に気遣っておられた方ですが、夫や職場でイイタイコトを言わずに我慢をする性格で結果、癌になってしまい、お医者さんから(# ゚Д゚)イイタイコトを言いなさい!と言われて以来旦那に対してズケズケでものを言えるようになったそうで結果的に60代でがんが治ったそうです。人間、健康に気遣っているようでもどこかしら無理をしていることがある。それが原因でがんになるということもあるもんですから、お母さんを助けたければこの話をご覧頂き、どこか心に抱えている家族に言いづらいことであればこちらのお寺に電話をしてみるといいよ、とお伝えください。心の中に一切のわだかまりをなくす。大切です。
私はコロナ前、夏休みにお寺を開放して地域の盆踊りの会場の場として提供しました。その際に、普段ないところに靴がギュウギュウで踏んじゃァ悪いと思い、靴を踏まないように足を出したら階段から落ちてイベリコ豚な巨体が🐖がゴロンゴロン。足をケッコウ🐔痛めました。その時は祭りでお酒も入っていて痛みはなかったですが、翌朝は歩けないほどでした。「今日は坐禅会があるのにどうしよう」足を引きずりながらも、会が始まりました。
そこでいつも通りの仏法の救いの道理についてお話をしました。
人間はどうすれば心がすくわれるのか、についてです。
人間の心というものは人間の考え方をもちいてあれこれ悪いように考えたりしなければ、世界も自己の身心もともと大変安らかで自由なのです。そのためにはこういう心の処し方をされるとよいですよ、ということを丹下節でたんたんとお話ししました。
来てくれていた人にもスーッと伝わったようで手ごたえがありまして。私もうれしかったのです。終わった頃、なんと!足の痛みが消えていたのです。不思議なことだなぁと感じました。hasunohaのある坊さんとこんな話をしたことがあります。「人を安らぎに導くとは坊さんがやる布教とかじゃなく、人間誰もがやるべきことなんじゃね?」「そそそ!自分もそう思います。」と。

2023年1月27日 11:27
{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ