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神様、仏様は本当にいますか?

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私は母から虐待を受けて育ちました。
母は精神的に弱く、何かあると神仏に祈っていました。私は母の愚痴を聞いたり、母の言う通りのいい子になろうと頑張ってきました。

でも母は幸せになりませんでした。

私は母に連れられて神社や寺に行くとき、みんなが幸せになりますようにと祈っていました。私の4歳の娘もこないだ初詣に行ったら同じ願いをしていました。

母は何を願っていたのでしょう?
幸せになりたいわけではなかったんでしょうか?

おみくじを先日引いたら

神の御手にすがりなさい。さすればあなたは救われます。

と言ったようなことが書いてありました。信じていれば本当に神様や仏様は私を幸せにしてくれるのでしょうか?

2023年3月1日 19:16

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

幸せは自分の心が決めるのです

私のお寺のある信徒さんがある日訪ねて来て次のように言いました。「私の両親が亡くなって、両親の代までは仏教徒としてお世話になりましたが、私自身は神仏を信じていません。ですから私の代からは無宗教です。従って家の仏壇のご本尊や位牌は不要になるのでお寺でお焚き上げにして下さい」と。私は「判りました。それではそのご本尊や位牌はゴミ箱に捨てて下さい。あなたは無宗教なのだから問題ありません。無宗教なのにお寺にお焚き上げを頼むのは意味がありませんから。」と答えました。
それを聞いてその信徒さんは「申し訳ございません、このお話しは無かったことにして下さい、今後とも先祖の供養を宜しくお願いします。」と言って帰られました。

何を申し上げたいかと言うと、この話から私は本当に神仏を信じて居ない人は少ないのだと確信しました。日本人のDNAに神仏を敬う気持ちはきっと織り込まれているのだなぁと思いました。

しかし、神仏というのは心の拠り所です。幸せか不幸せは一人一人の心が決めるのです。もちろん私は坊さんですから仏様は信じています。でも仏様が私を幸せにするのではなく、仏様が見守ってくださるおかげで、私が幸せだと感じるのです。幸せを決めるのは自分です。

お母さまが神仏を敬うのは尊いことです。でもそれは誰かに強制するものでは有りません。
あなたはお母さまに対してさまざまなお気持ちがあると存じます。でもこれからは、ご自分が信じることを大切に生きて欲しいと思います。子育てもある、ご主人との生活もありますよね。あくまでも神仏は心の拠り所です。毎日の生活はあなたがご家族と紡いでいくものです。
幸せはあなたの心が決めるのです。合掌

2023年3月1日 19:50
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悩み苦しみの現場は煩悩

私達の悩み苦しみやストレスの原因は、欲・怒り・怠け・プライド等の煩悩です。
仏様は、煩悩を制御して悩み苦しみを制御したりするテクニックを教えてくれる師匠です。
だから、仏様を信じて、仏様が説いた教えを少しでも知って、生き方に取り入れるなら、人生は平安になっていきます。
一方的に神仏にお願いごとをするのは、仏教的にはちょっと違うと思います。
それらは人間が勝手にやっている文化的な風習にすぎないのです。
また、日本人は、恐ろしい存在に対して「たたらないでください、鎮まってください」と慰める意味で神社を造ったりもします。
そんな恐ろしい(人間に危害を加えるかもしれない)神様に、人間の願いを叶えてくれと祈るのは、ちょっと無理があります。
神社の神様には、「あなたは強くて恐ろしいから、どうか暴れずにおとなしくしておいてください」という願いだけは聞いて欲しいですね。
私は、神社の神様に対しても南無阿弥陀仏と念仏を唱えて、神社の神様も仏様の教えによって救われますようにと、神様の幸せをお祈りします。
追記
 悩み苦しみを制御するテクニックを身につけるために、瞑想や念仏等を実践したり、仏教的なものの見方を学んだり、仏様や極楽浄土を信じて安心感を得たりする方法があります。
なお、仏教の瞑想はマインドフルネスとして、仏教界以外でも注目されています。

2023年3月2日 3:55
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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

大切なお話ありがとうございます。

仏様に幸せにしてもらうのではなく、仏様が見守ってくださっているおかげで幸せなんですね。よく考えれば私は確かに他力本願であったかもしれません。

私も、初詣などに買ったお守りを粗末に出来ません。心の拠り所はやはり大切ですね。私は今、とても不安です。これからも神仏を心の拠り所にさせていただきたいと思います。

自分の力で幸せになっていきたいです。

どうもありがとうございました

ありがとうございます。

仏様は、悩みや煩悩を制御するテクニックを教えてくれるんですか!?

その考えは私の中にありませんでした。
お寺とは、お葬式などで魂を鎮めるという、死後の世界に関することを担っていると思っていました。
神社は確かに祟られないように荒神を祀るというのがありますよね…

そうなんですね!
神社や仏様に自分のお願い事をするものだと思っていました。

ちなみに悩みを制御するテクニックというのは座禅などをするということでしょうか?

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ