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ありがたみを理解するには

回答数回答 1
有り難し有り難し 7

ご閲覧頂きありがとうございます。
お釈迦様が病気になられた時のお話、母が子を亡くした時のお話など、お釈迦様の逸話を何度か聞いていたのですが、恐らくお釈迦様の逸話で伝えたかったことは「何かを失って悲しむのではなく、そもそも持っていた(もしくはあった)こと自体が当たり前などではなく、非常にありがたいことなのだと気づくべきである」ということだと思いました(違ったらすみません。)。
病気になっても、そもそも今まで健康だったことがすばらしいことだったのだと。

そこで質問なのですが、生まれてから当たり前に与えられたもの、環境を「当たり前などではなく、ありがたいこと」として心から思えるようになるにはどのような心がけや、見方をしていけばいいのでしょうか。
頭では「奇跡だ、すばらしいことなのだ」と理解していても感情がおいていけぼりになってしまいます。
物事やもののひとつひとつにそう思えるようになったならば、まさに生きながらの成仏のように幸せになれると思っているのですが。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

体験してみてください

お釈迦様の逸話や教えの受け止め方は人それぞれですから、正しいも間違いも気にしなくていいと思います。
あなたの受け止め方の方が良いかもしれませんね。

ちなみに私としては、
人は必ず死ぬという現実を知りなさいという教え。さらに、
この母親は自分の生活の為に子供を生き返らせたいのであって、自分の事しか考えていません。なので、自分では無く、ちゃんと目の前の子供を見なさい。子供の事を考えてあげなさい。
という教え。つまり、自分への執着を捨てなさいという教えと受け取っていました。

ところで、ありがたい、とは漢字で書くと、有難いですね。有るのが難しいのです。
例えばあなたが食べた昨夜の食事は何だったでしょうか?
食事はとても有難いのです。
白米はありましたか?
野菜、肉、魚などありましたか?
味噌汁、漬物は?
それらを自分の手で作ってみる事です。
田んぼの田植え体験してみてください。
庭で野菜を育ててみてください。
魚を釣ってみてください。
味噌を作ってみてください。
漬物を作ってみてください。
いくら頭の中で知識として作る事が難しいと知っても、心からそれらを有難いとは思えないでしょう。
しかし、実際に作る体験をしてはじめて有難さに気づくのです。

仏教は知識だけでは無く体験が大切なのです。

子供を亡くした母親も、たくさんの家をまわってそれぞれの家で家族の死を知るという体験が死を受け入れる為には必要だったのですね。

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有り難し
おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答しています...
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質問者からのお礼

聖章 様
お世話になっております。
なるほど、己への執着を説いた、という見方もあるのですね。
逸話はいろいろなすばらしい見方ができますね。
「体験してみる」確かに、中学校で農業体験をした時、今まで「口にいれるだけだったもの」を今度は「育ててみる」ことで、植物が病気になったり虫に食われたりという苦労をあじわい、どうしても食べ物を残してしまうときの「もったいない」という感情が育ったことを覚えています。
料理も自分で作ってみてから、食べ物を残せなくなりましたね。
「体験してみる」是非やってみようと思います。
聖章さま、この度もすばらしいご回答をありがとうございました!

「お釈迦様・ブッダ」問答一覧

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

有り難し有り難し 43
回答数回答 3

真言宗と浄土真宗の中のお釈迦様

はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

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