お仏壇に手を合わせる時
数ヶ月前に父が亡くなり、納骨も無事済みました。
私はお仏壇のある実家ではなく遠方に住んでいるため、自宅に父の写真を置いて、お花を飾り毎朝お水とお線香をあげています。
このお線香をあげて手を合わせる時、心の中で何と言うのが正しいのでしょうか?
家族を見守っていてほしい気持ちもありますが、父がもうどこも痛くも辛くもなく、ただただ安らかに穏やかにいてほしいというのが一番の願いです。
何をするのが、亡くなった人にとって一番嬉しいのでしょうか?
また今回のお葬式で、恥ずかしながら初めて自身の家の宗派を知り、住まいの近くに同じ宗派のお寺があったため、月に一度父をよろしくお願いしますとご挨拶をしに行っています。
この行為は失礼にはあたりませんか?
何か意味があるのかは自分では分からないまま、どうしても参拝に行きたくなってしまいます。
教えていただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
忘れずに、こちらから
こんにちは。お父様を送られたとのこと。私も昨年同じことがありまして、今でも不思議な喪失感みたいなものがあります。
さて、まずは「お参りの際の言葉」です。こちらは日本では宗派によってそれぞれ異なります。宗派をお聞きになったのであれば、正式な言葉はそれを頼りに探すことができるでしょう。
しかし、そういった形を通じて…「何をするのが、亡くなった人にとって一番嬉しいのでしょうか?」ですが、それは私たち僧侶には分かりません。というか、あなたがこれから時間をかけて探していくべき問いなのだろうと思います。
ただ、私が多くの方々を拝見し、また私自身の感覚として大切にしたい、してほしいのは「忘れずに、こちらから」手を合わせるということです。具体的に言えば「習慣づける」ということでしょうか。
幸いにして私は、祖父・祖母・そして父を通じてお参りが習慣づいてきました。そしてお仏壇の前で思うのは「いま、父が、祖父祖母が私を見たら、なんと言ってくれるかな」という自問自答のようなことです。他の誰でもない父が「おお、よくやってるじゃないか」と言ってくれそうな気がすると、誰が見ていなくとも物事を続けていけそうな気になるのです。私は。
あなたにとってお父さんがどんな方だったのかは分かりません。けれどきっと大切な、好きな方であったのだろうと文面から拝察します。そんな方にどう言ってもらえそうか。それは他人からの視線のようでいて、自分で自分を律する・育てていくやり方なのだろうと考えています。
ごめんなさい、元々の質問は「近所にある、同じ宗派のお寺にお参りに行きたい」という件でしたね。今回のご事情をお伝えし、「月に一度、仏様へお参りに来たいのですが、どのようにお参りすれば、また何に気をつければよろしいでしょうか」とお尋ねください。そういった方を、お寺は(基本的に)歓迎するはずです。