噂を流されているような気が
あるサークルに入りSNSなどで繋がって情報を見たりしています。サークルには不定期でイベントがあり私はツイッターのフォロワーはいますがだいたい一人で行き仲のいいフォロワーもあまりいなくて一人で呟いています。試しに話しかけても付き合い方が下手なので返って裏目に出て嫌われてリムられたこともあるのでフォロワーとはほとんど話をせず周りからは孤立しているアカウントと見られているみたいです。そしてあるイベントで私はイベントが始まる前にロビーでフォローしていませんがその手の界隈では顔が広い人2人が私を見ると軽蔑したようにガン見して立ち去って行きました。こういう似たようなことが過去にもよくありました。私にはそのサークルは向いてないのでやめた方がいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
向き不向きを気にしない心がけを。
拝読させていただきました。
釈迦はこのように真理を説きます。
「沈黙している者も非難され、 多く語る者も非難され、 すこしく語る者も非難される。 世に非難されない者はいない。」
要は人の目を気にしない生き方に努めなければならないのです。それは人間特有の性質をもつ「執着する生き物」なのです。
今日食べたいものがあるとするならば、明日の欲する味覚が変わるように、相手が思っていること、思っていたこともすべて時間が経てば変わるのです。
しかし問題に捉われれば、心は囚われます。
問題は、自己に執着してしまう他人の目を気にしない心がけが必要な心の薬となっていくのです。
何ごとに於いても、習慣された癖は善悪ともに自信にも不安にも変化していきます。
仏教ではサンスカーラという心を形成していく上で、心を悪い習慣に捕らわれないように善の心がけをしていくために『十善戒』などを保持していきます。
十善戒の戒律を守ることは表面的なことでなく、心に善を染み込ませていくことが自己に着いた癖が減少していくのですが、こびりついた汚れが簡単に落ちないように、心に着いた執着の習慣となる汚れも同様になかなか取れないものです。しかし、諦めない信念をもつことが肝要となり、仏教は2500年続く真理を明かした釈迦の教えであるから信じていくことの方が自己にとって得策となるのです。
質問から話しは逸れているように感じるかも知れませんが、時間は待ってくれません。執着は時を止め、そこに思い留まっていることであるので、過去にとらわれていると取ります。
心を安楽に運ぶためには、人間なんてものは愚痴の一つも二つもでるものだから、気にせずいこうってくらい楽観的に心構えをしてやる方が、表情などにも余裕が生まれていきます。
好きでもない人に好かれようとする心は不要です。自分は自分らしくいられれば、仲間がおらずとも、幸せなのです。
合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。胸の中に抱えていたモヤモヤから早く自立したいと思います。
あともう一つ恐縮ですが私は返事が返ってくるとどう答えていいかうまくコミュニケーションが取れないのでそれが自分の希望とは異なる答えでも納得のいく答えでもはいそうですね、とだけ言って逃げてしまう性格です。お返事は長文ありがとうございました。たただ私は嫌いな人に好かれたいのではなく嫌われたくない人に嫌われてしまったことで悩んでいます。うまく説明できなくてすみません。