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人から嫌われたくない

回答数回答 1
有り難し有り難し 46

私は人から嫌われるのが
とても怖いです。
小学生の頃から人の顔色を伺う癖が直りません。

自意識過剰なのはわかっていますが
陰でひそひそ笑いながら話してる人がいると
私のことではないか不安で仕方ありません。

どうすればこんなことを考えずに済みますか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

嫌われても何も減るものが無いと知る

こんにちは。僧侶業界の嫌われ者、丹下ムラハ・恥部ーと申します。
「出る杭は打たれる。
だが出過ぎた杭は打たれない」と曹洞宗の前・管長猊下、板橋興宗禅師はお諭しです。
アルフレッドアドラーの『嫌われる勇気』という本が世間で売れています。
読んでみると良いかもしれません。(._. )
ところで私は最近、無農薬野菜を栽培しています。
世間では畑の作物につく虫は、嫌われます。
それが為に、農薬がふんだんに使われます。
そうすると、ガンになって私たちは早死にします。
体にとって嫌われているものは、本当は虫ではなく、農薬の方です。
それでも、私たちは虫を嫌って、みんなでガンになるべきでしょうか。
虫は食べたら死んでしまうから食べないのです。
でも、人間は虫が嫌いだからという理由で農薬を使う。
ミクロの世界では人体の細胞に悪影響を与えガンが増殖する。
虫は嫌われるべきでしょうか。いいや。嫌われている「理由」が間違えられているだけで、本当は、ドラえもんの映画版のジャイアンや、忍者ハットリ君のケムマキ(古すぎ)のように、何気にイイ奴なのです。
虫が食べたら死んでしまう野菜や果物を私たちは「嫌って」農薬漬け野菜を食べるべきでしょうか。いいえ。農薬の方が、有害なのです。
嫌われる理由が正しければ仕方ない。害だから。
でも、害ではないのだったら、嫌われなくていい。
ベッキーも私たちに害があった訳ではないから嫌う必要すらない。
だったら、嫌われたって平気でいるべきです。
有機栽培は無農薬。
ですが、虫が付く。本当は安全なのに。
アドラーの『嫌われる有機』とは、これがゆえんです。(勇気だろが。爆)
このように丹下はいつも冗談ばかりなので嫌われています。(>_<)
あ、嫌わないで。結構本人は真面目なのヨ。(時すでに遅し)
このように口は災いのものですから、嫌われない様に、他人の非は見ざる、言わざる、聞かざるとか。
これも嫌われない方法の一つです、
ですが、あなたの場合、別に嫌われてもいない内から、あらぬ妄想を観ザル、聴かざる、言わざるも大切です。

禅の悟りの三猿
アタマで世のさま観ざるとき🙈       
もの言わざるの実相 悟り🙊
あらぬ思いを聞かざるの人とならん🙉

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございますm(_ _)m

嫌われる勇気、読んでみようと思います。

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