生まれてこなければ良かった
私は子供の頃から、母が父に「〇〇(私の姉)は良い子やけど、〇〇(私)は要らん。」と言うのを何度も耳にしました。父は「そういう事を言うな!〇〇(私)は優しい子やろ」と怒っていました。
母は姉といつも私の陰口を言い、日記にも姉は天使、私は悪魔、夫は鬼と書かれているのを見てしまったことがあります。
私は成人後、体調を崩し、精神科でPTSD様のうつ状態と言われました。その際、母に怒り、全て聞こえていたことを伝えましたが、「お父さんへの当てつけやん。何が悪いの?それより私が頑張ったことを褒めてくれへんわけ?」と言われました。私は母に悲しみを理解してもらうことも愛されることも諦めました。
そして私が結婚、出産した頃、母は認知症になりました。母と接したくありませんが、父の事は気にかかり、子供の長期休みに帰省し、見かねて母を精神科や福祉サービスに繋げる手配をし、家事も手伝ってきました。
今回の帰省でも、長らく放置されたトイレを掃除し、蝿の孵化跡と油とゴミまみれの台所を片付け、何年も洗わず悪臭を漂わせながら固まった母の髪を切ってもらえる様、ケアマネに入浴と散髪を頼み、下着や新しい服も買いました。
しかし数日前、隣人から母が「上の子は好きやけど、下の子は私の子じゃない。お父さん(夫)の子や。」と言っていたと聞きました。隣人は「お母さん、昔からそう言ってたよ、他の人にも。お姉ちゃんは顔もお母さん似やもんな」と言われました。
でも当の姉は母の認知症にも無関心、数年に一度、数時間だけ実家へ立ち寄り見ぬふり。それなのにどうして見かねて掃除や介護の手配、買い物等に奔走した私がまた母にこんな言われ方をされるのかと思うと、何とも言えないおぞましい感情で涙が止まリません。姉の様に人に無関心な人が愛され幸せになるんだと。
また母のケアマネから母の病名が発達障害だと伝えられ、自分を"守る"ということが一番でそれさえ叶えば人を傷つけても自覚もない…と言われ、私の夫と同じだと愕然としました。全てが嫌になり、子供の頃からずっと「生まれてこなければ良かった」と思っていた気持ちが復活し、結局母と同じような夫を選んでしまった自分も嫌になり…。要らなかったと否定される人は幸せになれないのですか?頑張って生きてみても結局同じループにはまるのですか?人の事気に留めなければ幸せになれるのですか?生まれてこなければ良かった。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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私たちの人生はみな、仏様の慈しみの眼差しの中での人生
こんにちは。亀山純史と申します。
とてもつらい思いを子どもの頃から経験してきたのですね。そして、今もそのような辛い環境の中でも、精一杯生きているみよさんに、私は励ましの言葉を贈りたいと思います。
仏教のことばに、「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。」という文言があります。私たちは、人間としてこの世に生を受けましたが、それは大変まれなことである、ということです。どのような環境の下に生まれようが、人間として生まれたこと自体が尊いことなのです。それは人間のみが仏様の教えに触れることができるからです。どんなにつらい思いをなさっても、仏様の教えに触れることができる私たちは、常に仏様から慈しみの眼差しで見守られているのです。
癌を患って47歳で亡くなられた鈴木章子(あやこ)さんという方が書かれた詩の一節に、「死にむかって進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ」という言葉があります。癌を患った人生は、決して、死にむかっての人生でない、と言っているのですね。「今をもらって生きている」と言っています。どのような人生でも、私たちは「今、生かされている」ということ。何によって生かされているのかといえば、それは様々な命、様々なご縁によって、ということでしょうけれども、それらはみな、「仏様によって」と言い換えてもいいのではないかと思っています。
辛い人生を自分が描く理想の人生に変えることは、難しいことかもしれません。しかし、私たちの人生はみな、仏様の慈しみの眼差しの中での人生です。是非、仏様に手を合わせて生きる人生を歩んでもらえればと思っています。
以上が私からの回答です。少しでもみよさんの悩みに応えることができれば幸いです。
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまいましたが、まず、見ず知らずの私を励まそうと回答をして下さったこと、ありがとうございます。
私の家は先祖代々浄土真宗大谷派で、田舎なので、子供の頃からお葬式やお会いしたことのないご先祖様の〇周期法要等、家に村の親戚が会し、お坊さんがお勤めに来て下さってお話を聞く機会が多くありました。
その中で「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。」という言葉は毎度の様に耳にはしており、お世話になっているお寺のご住職からも意味を教えて頂いた事があります。今回、その言葉を使って回答を頂き、言葉が何か伝えようと巡って来てくれた様な気もしました。
しかし現実には…人の心は傷つくのに、その受け難い命に対して、ましてや母親が要らないと口にすること、そしてそれが呪いのように留まり続け悲しみの中で時間を過ごさなければならないこと、同じ様なループから抜け出せないこと、そういった事が悲しすぎて、仏様の慈しみの中で…と大きな視点では捉えられないのが実情です。なぜ私がこの様な親から単なる攻撃対象として生を受けなければならなかったのかと悲しく、それでもいつか幸せに(心が休める場所がほしいという当たり前の願いです)と思って生きてきたけどダメだったと辛くなり、慈しみの中で…と耳にしても心まで通ってくれず、見守られているという事の理解に至るより、助けてほしいというのが本音です。
それでも寄り添って励まして下さった方がいるという事、抱えきれない辛さを文字にして、回答を頂けて、どんな事が書かれているのかドキドキしながらも少し嬉しい気持ちになれたこと、今の私には一時の事にしかならないかもしれませんが、一時であってもとても有り難かったです。ありがとうございました。