罪悪感と罪滅ぼし
何度か質問をさせてもらっています。
私は過去の自分がしてしまった身勝手な行動について社会的な制裁を受けていません。しかし、いつか社会的な制裁を受けるのではと恐怖で辛いです。やってしまっていることは、とてもとても反省をしているつもりです。しかし、残念ながら相手に謝る方法はなく、ただただ、いつか過去の私の行動が問題になるのではないかと不安と恐怖があります。
調子が悪い時はただただ恐怖で不安で辛いのですが、少し落ち着くいた時に、ふと、いまは相手に謝罪をすることができないのならば、まったく関係ないのない方へでも何か私ができる限りのことをしてあげることで、私はこの辛さから逃げられるのではないかと考えるようになりました。
では具体的に何をすればいいかはわかりません。社会貢献というと大袈裟ですが、困っている方がいたら何か積極的に私にできる範囲で助けてあげたいです。私の現在の力では、本当に小さなことしかできませんが、ただただ恐怖でいるよりは、まったく関係のない方へでも、そしてとても小さなことでも、私が何かをしてあげることは意味のあることではないかと思いました。
ただ、一方でそんな考えた方は私の身勝手な思いでしかなく、かつて私が不快に思うようなことをしてしまった相手は、どこかで怒っていて、私が社会的な制裁を受けることを望んでいるのではないかとも思ってしまい、また恐怖になります。また、私はこれから、とても幸せに暮らしたいと思っています。しかし、このままでは、罪深い自分のような人間が幸せになることが間違っていそうで、恐怖です。
うまく言葉がまとまらないのですが、私の過去の罪滅ぼしのために、関係のない方のために何かをしたいという考えは、ただ私のエゴでしょうか。ただ、私が現在、過去に自分の行動から許しを得るためにできる行動は、これくらいしか思い浮かばないのです。
質問というか、うまくまとめられない考えになってしまっていますが、何かお言葉を頂ければと思います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【追記あり】過去も今もこれからも、どれもあなた
ご相談拝読しました。
ずっと過去の行いについて後悔しているのですね。そして時に不安になったり、恐怖したりもするのですね。
そしてその辛さから逃げるためにも、社会貢献や他の方の力になりたいと考えていらっしゃるのですね。
私が思うに、社会貢献や他の方の力になることは素晴らしいことです。しかしそれを罪滅ぼしのため(だけ)にするのはどうでしょうか。
人間はいつでもやり直せます。幸せを目指して良いのです。しかし、それはどのような歩みであったとしても過去がなくなるわけではありません。
過去を消し去るためでなく、過去の至らない自分の事実を引き受けるために、あなたがやりたいようにやってみてはいかがでしょうか。
思いの中に留まっていてはエゴを超えることはありませんが、思いが行動になった時、あなたの思い(エゴ)を超えた結果が生じるかもしれません。
けしてそれは過去の罪の相殺ではなく、過去の傷みはそれとして抱えつつ、今のあなたが新たに享受する幸せではないでしょうか。
消そう、逃げようとしてもいつまでも追いかけられるだけです。
そういうことをする自分であったこと、これからもそうであるかもしれないことをどこかで胸に置きつつ、今これからのあなたを精一杯生きてみましょう。
何をやってもエゴを抜けきれないのが私たちですが、そこから起きる事実やつながるご縁はエゴを超えると思いますよ。
【追記】
過去してしまったことはあなただけのせいということではありません。私たちはどうにもならない自分を抱えているのです。完全に自分の意思で決定したように思う事柄も、実は無数の他からの影響を受けています。仏教では縁(えん)と言います。
育成環境、社会状況、自分で見て聞いて考えたこと・・・あらゆる縁の中であなたのその行動が起こってきたのです。あなただけのせいではない。でもあなたが無関係でもない。そうしてしまう縁の中にあった自分を認め、これからの縁に思いを馳せましょう。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
多くのことを気づかせていただきました。「過去の傷みはそれとして抱えつつ、今のあなたが新たに享受する幸せ」との言葉もとても貴重なお言葉だと思います。
しかし、話が最初に戻ってしまうのですが、「過去の至らない自分の事実を引き受ける」「そういうことをする自分であったこと」ということを認めたり、「胸に置いたり」することが苦痛で苦痛で辛いです。