過去のあやまち
2年前に交通事故を起こしました。
過失は私が10割です。相手様は、むち打ちの後遺症で肩凝りが残っています。
現在、生活には特に問題は無いとのことでした。直接謝罪し、許して頂けましたが、相手様が高齢の為、予後に責任を感じてしまいます。
どのようにこの過ちと向き合えば良いか、教えて頂きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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涅槃経
「二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慙、二つには愧なり。」
こらは涅槃経というお経の一説です。
父を殺害した罪に苦しみ、病に臥せるマガダ国の阿闍世王に対して耆婆が語りかける場面です。耆婆は、お釈迦さまを尊敬し、その教えをよく聞いた一人でありました。その耆婆が、苦しむ阿闍世に次のように語りかけるのです。「阿闍世王よ釈尊は常にこうおっしゃっています、『二つの尊い教えが、人を救うのです。一つは慙、もう一つは愧です。』と。
慙も愧も、どちらも恥じるという意味です。『涅槃経』では、「慙」を内に向かって自らを恥じることであると言い、「愧」を他者に対して自らを恥じることだと説きます。そしてこの慙愧の心こそが、人を救う尊い法なのだと言うのです。
あなたは、2年経ったいまでも慙愧の心をお持ちです、その心があるからこそあなたは救われていくのです。人は誰でも、生きていく上では過ちを犯します。眼に見えない小さなものから、多くの人を巻き込んでしまうものまで、過ちはさまざまです。その時、犯した過ちを他の責任にして消し去ろうとするのではなく、まず自ら悔い恥じることが大切なのだと言うのです。
慚愧の心がおこらないのは「畜生」であって「人」ではないとも『涅槃経』は説かれています。阿闍世が自ら犯した罪を恥じ、苦しみを懐くのは、阿闍世がまさに「人」であることの証拠でもあるのです。そこに、阿闍世が苦しみから救われていくはじまりがあるのです。
あなたが悔い恥じる心を持ち続けることは2度と同じ過ちを犯さないと言う戒めになっています。
私はあなたが真面目で優しい心の持ち主だと思います、何故ならそのような心があるからこそ2年前の事故にそこまで責任を感じているからです。あなたを応援します。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
慚愧の心を持ち続ける事が大切だと思いました。
内と外に対して、『恥』の気持ちを持つ事を意識しようと思います。
本当にありがとうございました。
感謝致します。