どうすれば人は寿司を奢るようになりますか
世界的な食料危機が叫ばれる昨今にあって、幸いにも日本は食に恵まれた国だと言われます。そんな日本で半生を生きる中、「一番うまかった物はなにか?」と大勢に質問してきたのですが、最多回答が「他人の金で食う寿司(ないし焼肉)」でした。個人的に納得するものがあり、そう回答しなかった人にもこれを伝えると「確かにそれだ」と共感されることがほとんどです。
ということは、もしも二人の人間がおり、お互いが月に一度程度寿司を食べられる財産の余裕を持つ場合、この二人がよりうまい飯を食う方法は、毎月交互に寿司を奢り合うことになり、それは少なくとも、毎月自分で寿司を食べるよりも食事からの幸福度が高まることは数学的に間違いないはずです。他人に奢ってもらった寿司がうまいのはそうですが、他人に寿司を奢った時に相手が喜んで腹いっぱい食べる姿も幸福を誘発するため、これは誰もが気付いて当然のライフハックなはずです。事実、様々な仕事で成功するなどの優秀な成果を収めた人達は皆気付いており、進んで飯を奢る権利を奪いあうような関係にありました。
しかし、多くの人達はこの事実が理解できないようで、他人に飯を奢ったことなどないという人がほとんどでした。もちろん、金銭や心の余裕がなければ難しいのは事実ですが、余裕がない時でも少し無理をして他人に飯を奢ることが、最終的に大きなプラスに繋がってきたことを経験の中で実感しています。
この事実を伝え、広めることで、自分も、自分の周りも幸せになることは間違いないはずなのですが、帰来他人に飯を奢らない人にはこれがなかなか理解してもらえず、むしろ「奢ってくれという厚かましいやつだ」とネガティブな印象を受けることがほとんどでした。
世俗的な話でしたが、ある意味仏教の根本にも繋がるような気がする考え方であり、ここで回答してくださるお坊様方は、この話に深く共感してくださるのではないかと思います。また同時に、その教えが理解されない体験も多くなされているかもしれません。
そこで質問です。お坊様方は、この考えが理解できない人達に、どう教えを伝えてきましたか? もしくは、教えが理解されない相手に、どう接してきましたか? できれば、多くのお坊様方の回答を期待します。
信心深い性格というほどでもなく、神仏の類に何かを願ったこともありません。しかし、神霊の類の存在は確信しており、敬うべきだと考えています。神託が聞こえるとか、霊魂が見えるということはないのですが、なんとなく漠然と直感することは生まれながらに何度もあり、理由はわからないのですが、そういうものとして合理的判断の補填要素として使用しています。仏教に関しては、最新の科学や心理学の解釈としても極めて合理的であり、宗教というよりも科学の先取りと民俗学の中間程度に考えています。趣味は物理科学・日本の民俗学・社会心理学の最新論文を読むことです。
感情で長期的に不利な行動を行ってしまう人や、不勉強を放置したり、対価を支払わずに私利を追求してしまう人と付き合うこと、及び、そういったものをストレスに感じてしまう自分自身の不完全さもストレスに感じる。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
[追記しました] こんなお話、楽しいですね!
以前、講師からこんな話を聴きました。「なが~いお箸を持った人たちが黙々と食事をしている。食べにくいと文句を言ったり溢している、これは地獄。それに対して、長いお箸を何とか使いこなしながら、机の向こう側の人の口元にご飯を渡している人たちがいる。戴いた人はお返しに同じことをする。これは地獄とは反対の世界」と仰っていました。私は確かに自分だけが美味しいものを独り占めする、食べにくいと文句まで言う。地獄だなぁと思いました。反対の世界はまるで、乳幼児の口にスプーンで離乳食を食べさせて上げているお母さんのようで優しさに満ちた世界だなぁと思いました。私の答えは「人それぞれ生まれ育った環境も違うので、奢られたお寿司が一番美味しいかどうかは疑問である」が答えです。仏教徒としては地獄絵図は避けたいですよ、悲惨ですからね。奢る奢らないを超えて母親のような愛情を持ち続けて生活をしたいです。それから話の伝え方ですね。それには双方の関係性、信頼関係も重要です。応病与薬。相手を観て内容のレベルを考えます。それは偏差値ではないです。伝わらなかったらしっかりと振り返りをします、相手は悪くないですね。_____________________
知人が印度ヨガの聖地に行ったとき、貧困の男性が健康な両手脚を切り落として乞食をしていたそうです。私は釣りの技術は伝えられないに近いと考えました。ただ、余りにも理解に苦しんだので「そんな方法は止めて、カウンセリングのスキルを伝えるから、極端な考え方の人が訪れたら今度は貴方が止めてください」とだけ残して去りたい、と思いました。判断はその方に任せます。他人の生き方は支配できませんし。伝えたいのは私のエゴです。「口出しせずにはいられない自分」ですね。私は冷静で客観的、俯瞰できていたらそれで良しとしています。世界のマーケットを観ているUNIQLO柳井さんのような人なら大勢を救えるかもですが、病のある私は身近の人が限界です。
悲観するのは早すぎますよ。次回はなぜ「人間の中で自分が一番嫌い」かの問答をしましょう。ちょっと「メサイアコンプレックス」を調べて見てくださいね。そして愛する人と共に幸せに歩めたら素敵ですからね。キャリアドリフト、流されるままに時にはね。思い通りにならないからこその仏教。此処で出遇えたのも何かのご縁、ありがとうございました。南無阿弥陀佛
質問者からのお礼
比丘尼様、回答ありがとうございます。少し、世俗的と申したところで伝わり方に乖離があるように感じましたので、同じ質問に対する3番目4番目の回答とあわせて追記させてください。
この質問に対する2番目の回答は「疲れた時のビール」なのですが、3番目は「実家の味噌汁」で4番目は所謂「一杯のかけそば」でした。ちなみに、私は20代前半からこの質問をよくしているのですが、歳を重ねるにつれ3番目と4番目の回答が増え、統計的にこの順位で間違いないという話ではなく、単に自分の交友関係の変化に伴う母数となる世代による問題です。
これらを踏まえるに、このうまい飯というのが、単にぐるなびに乗っているようなグルメ情報ではなく、どういう時に飯がうまく感じるのかという大喜利のようなものだとわかるのですが、134と共通するのが「感謝」がスパイスとしてかかっている点であり、これが私として仏教的だなぁと考える点です。
日本人はほとんどが無宗教だと言いますが、イスラムの知人曰く「食べる前にいただきますと言い、残すともったいないという日本人のどこが無宗教だ。僕はおろか、敬虔なムスリムの知人達よりもよほど信心深い」とのことで、結局のところ日本人にとっては、仏教と神道と精霊信仰の混じった雑把な考えが、口に出すまでもなく当然のこととして根付いており、根付きすぎた結果、「感謝」を「奢られた寿司」という世俗的なジョークに変質させているのだと感じています。
つまるところ、奢られた寿司とは、独占された寿司ではなく、むしろ、きみこ比丘尼様が仰るようなお互いが食べ物を与え合う関係性の象徴表現だというのが私の考えなのですが、改めて、きみこ比丘尼様は奢られた寿司はお口に合うでしょうか?
さておき。きみこ比丘尼様の回答から2つの気付きがありました。まず、私は「奢られた寿司」を「与え合う感謝」としか考えられなかったのですが、確かにこれは「食べ物の独占」という見方もできます。つまり、私の言葉が伝わらなかった人達は、独占を良しと考えるわけで、それならば「寿司を奢れ」というのが「俺に独占させろ」に伝わってしまうわけで、話が理解されないのは当然だと気付いたのがまず1つです。
加えて、これが今回の質問の本質に近いのですが、きみこ比丘尼様の仰る通り、マズローの欲求階層に基づき、余裕のない人に余裕を持てと説教するのは嫌味であり怒りを買うのは当然と考えます。そうするとこの場合、私には相手が余裕を持てるようになるまで助力する以外の方法が思いつかなかったのですが、こうして1人1人は助けることができても、助けた人は助力に慣れてしまい別の欲望が湧き、一方で新たに出会う人のほとんどが余裕のない状態という、まさに娑婆が地獄の餓鬼の群れに侵されている状況に絶望し、生きる気力が最低限まで落ち込んだ状態で逃げているのが私の昨今です。しかし、そんな中でも人を助けたい、相手も自分も幸せになりたいというエゴが消えず、逃げることにストレスを感じる現状でもあります。
感謝の与え合いの概念さえわかれば、それだけでかなりマシな状態になるはずなのに、これが全く伝えられない自分の未熟。それどころか、おそらく助力の方法も下手で、おそらく飢えた人に釣りの技術が伝わらず、魚だけ取られているだけなのでしょう。こういったケースで、お坊様比丘尼様の皆様方がどう生きているのか伺いたいのですが、改めて何か叡智はありますでしょうか。
きみこ比丘尼様、改めましてありがとうございます。
釣りの技術を伝えられない苦しみが本当に大きいです。しかし、日本はまだマシな方で、世界に目をやればそういう地域もあると考えると、多少仏教をかじったとは言え、まだカピラ城から出られてすらいないのだと知り、本当に絶望しか感じられません。
やはり「助けられる人だけ助けるべき」「すべてを救いたいと思うのはエゴが強すぎる」「相手を突き放して無責任になる割り切りが重要」というのが、誰にどう聞いても帰ってくる答えでしかなく、理解できても納得できない日々が本当に苦しいです。
今は人間の中で一番嫌いな人物である自分自身を好きになるか、この人だけ幸せにできればいいという相手に出会うか、もしくはこのまま燃え尽きてしまうか。今は、あまり良い想像ができません。