感情の波
両親の追善菩提に四国巡礼を始めました。仕事もあるので一旦途中で帰って来ましたが、近いうちに満願を目指しお遍路する予定です。
お遍路していると母が父の為にお遍路したのは確かに父の供養になったであろうと実感します。
しかし、私のお遍路が父や母の為になっているのか、、、わかりません。
お遍路から帰ってきて少しは母の死から立ち直ったかな?と思うものの、ふとした瞬間に父や母の処へ行きたくてたまりません。
実家の仏壇に母が活けなかった花が入っていたり母が立てなかった香りの線香が使われていたり、、毎日、毎日、母がしていたことを同じ家に居てても良く見ていなかった人が先祖祀りをしているんだ…と思うと夜も眠れません。
私は母から家を出たら構ってはいけないと躾けられているので口は出していませんが、、赤いカーネーションが活けてあったのが許せません。母はまだ百箇日忌も過ぎていないのです。
いつか我慢できなくなって口走って揉め事の種を撒くなら消えた方がいいかも?と思ったり、、、
楽しい時間は早く過ぎるので何か楽しく過ごして早くその時が来ないか?と思うのですが、母が居なくなってから何事も楽しめないようになっています。
お遍路も途中なのでまだ死ねない!と思っているのが今私の生きている理由です。
お遍路満願したら、いつ死んでもいい!
お遍路満願したら…前向きに頑張って生きようと思えるようになるのか、な??
早く、早く、両親に会いたくて、会いたくてたまりません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本当に泣いていますか。
ご両親、お母さまとのお別れをお悔やみ申し上げます。
「別離の情去りがたく、恩愛の絆は絶ち難し」
お別れの悲しみが癒えないことは、決して悪いことではありません。共に生きているうちは意識していなくても、ご自身がこれほど深くお母さまを思っていたことを、お別れして初めて気づくという発見をされているのではないですか。
悲しみを抱えたままの自分を「弱い」と蔑むのではなく、泣き切ることから見えてくる出会いもあるはずです。
お遍路もまた、悲しみをご自身が受け入れ、向き合っていくための途上、道半ばにあるのではないですか。
ならば、「私のお遍路が父や母の為になっているのか、わかりません。」と結論するのは、早合点というものです。
誰にも本当のことはわからない?本当でしょうか?
あなたの存在を、あなたの母をおもう気持ちを、どうしてお母さまには「伝わらない、わからない」と言えるのですか。お母さまはそんなに心の狭いお方でしたか?
あなたが生まれた時から、そのわがままも、愚痴も、すべて受け入れて育ててくれたのは、他ならぬお母さんではないですか。
お母さんはそんなケチな方ではありません。極楽浄土へと参られる尊いいのちを生き抜かれた素晴らしいお母さんを、あなたも是非みならって下さい。真似して下さい。
こころ優しいお母さんなら、遺された者とのお別れを、独占したりしませんよ。
カーネーションを活けることに立腹するのはお母さんですか?
新しい香が焚かれて、不機嫌になるのはお母さんですか?
先祖祀りを独占出来るのは私以外にいないという、あなたの今の腹立ちを、お母さんはよろこんでいるのでしょうか。
きっとお母さんは、迷い、とまどい、悲しみに暮れるあなたを、一緒に「悲」しみ、「慈」しみのこころで見守って下さっています。これを「慈悲」といいます。
それから、「お遍路満願したら、いつ死んでもいい! 」という思いすら果たせずに亡くなるいのちがあることを知っていますか。親を見送ることもかなわず、親より先に終えてゆくいのちがあることも。
あなたは、満願で死んでいいいのちですか。
あなたはそれで今すぐ命を絶てば必ず会えると、誰が約束したんですか?
本当に泣いていますか。
あなたはいまお母さんと出会っています。涙のむこうに、出会い続けているんですよ。
両親から自立しなさい!
いつまでも親に甘えるな!自分を持ちなさい!。親から自立しなさい!。あなたは両親から頂いた大切な命を生きているのですよ!。どれだけの両親のご苦労と愛情ががあって今のあなたが在るのですか?命を絶つなんて口にしてはなりません。あなたのご両親は今あなたをどう思っているのか、どうしたら両親が喜ぶ生き方が出来るのか考えてみてください!。お父さんお母さんの死はあなたへの最後の教えです。苦しくても寂しくて辛くても人は生きるのです。越えてゆくのです、そして、そこに人間として生かされて生きている本当の意味を感じてください!。
質問者からのお礼
真慧様、萩原様
お応えありがとうございます。
自ら命を絶つ事はしません。ただ、その日が来るのが待ち遠しく感じられてしまうのです。
巡礼をしている時は一心になれるのでいいのですが、帰って来ると波が押し寄せるように制御がききません。
此処に居た人が居ないから、、、。
でも、泣く事にします。我慢せずに。
患ってからは何時も頼りにされ片時も離れて欲しく無かった私の元から、母は何も言えずに逝ってしまいました。
お遍路をしても読経しても救われているのは自分ではないかと感じられ、出会う人から「いいご供養になっていますよ」と言って頂いても自分の為にお遍路しているのでは??と思えてしまうのです。
母の辿った道を歩き母を感じようとしています。お遍路の難所を行けば、「ここをお母さんも登ったの?キツイねー」「石段歩きにくいよ〜」と話しかけ…、雨の中、山頂の雲の上に出たら母の姿を探し…、戒壇巡りでは「お母さん、そこに居るの?手を引いてー」と言ってみたり。。
ただ甘えていたいだけなのですね。
もっと自分と、孤独と向き合わ無いと駄目ですね。
父と母の自慢の娘に戻れるよう孤独に打ち勝たなくてはなりませんね。
いつか遠い明日に、逢ったら褒めてもらいたいですからね。
お返事何度も読み返し、いっぱい泣いています。まだまだ泣けます。でもこれでいいんですね。