私の考え方についてご意見を頂戴したいです
私自身好きなように楽しく生きるという主義で生きているのと、言葉より行動と事実を見ろと考えております。
結局自分が正しいと思った行動をして、誰かが傷ついてしまったりすることは絶対あると考えていて、他者の感情はコントールできるものではないと考えてます。
好きな人とお話をしている際に、度が過ぎた言葉を言いよくキモイとか、流石に引くとか言われますが、結局会ってくれたり話してくれるという事実は変わらないのでその結果や真実が正しいと考えます。
その子にはその子の正義があり、本当に嫌なら会わないという選択も取れますが他者の感情、言葉を自分の行動に当てはめないことって大事なのでしょうか。
好きな子に期待していなくはなく、好いてほしいという欲望が必ずしも存在しております、
裏取が欲しいわけではございません、いろんな意見を聞いたうえでより成長したいと考えております。
質問になっているか分かりませんが、ご意見を頂戴できれば幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
行動や事実が全てでもなく、相手との心地良い温度を感じながら
言葉より行動と事実。それもそうですね〜。
正しいかどうかというよりも、バランスかなと思います。
言葉が行動に伴うときもあれば、言葉では伝えられても行動に移せないときもある。また、言葉が何より大きな力となって相手を動かすときもあります。
他者の感情をコントロールまでは出来なくても、動かすことは出来ますよ。褒められたり感謝をされたら、嬉しいなって思いますし、頑張ろうという意欲が湧いてきます。楽しい会話であれば、また会いましょうねと言葉も自然に出てきます。
反対に、違和感や違いを感じたら、戸惑いや遠慮も生まれます。
キモイとか、流石に引くと言われる場合、あなた自身も度が過ぎた言葉であったと自覚しているなら別にいいですが、会ってくれているから問題ない(その事実があるから正しい)かどうかは微妙ですよ。
会う約束をしたから、友達だから、と関係性の中で今は繋がっていても、積み重なっていけば、(デリカシーのない人だな、言われるたびに価値観の違いを実感していく…)違和感が膨らんでいって、相手を好きかどうかも怪しくなってしまうものです。
行動や事実が全てでもなく、相手との心地良い温度を感じながら、大切にお付き合いをしてくださいね。
人は他人のことは分からない。結局は自分のことしかわからない。
うすけんさん
お悩み拝見させていただきました。
好きなように楽しく生きるという主義で生きているのと、言葉より行動と事実を見ろと考えておられるのですね。とても素敵な事だと思いました。
仏教では「身口意の三業(しんくいのさんごう)」という言葉があります。
身とは身体的行為、口とは言語的行為、意業とは意思的行為の意味です。
私はこの言葉が好きで自分なりに大事にしているのですが、
人はなかなか「言っていること、思っていること、行なっていること」この3つが完全に一致している状態で生きるのは難しいのだと思います。
言っている事と思ってることが違ってなかなか本音が言えない。
思っている事と行なっている事が違って生きづらさを感じている。
そのような人が大半だと思います。
ですので、行動だけ見て判断すると物事の一面だけしか見えていないのかもしれません。
繰り返しになりますが、残念な事に世の中は一致していない人が大半だからです。(笑)
好きな方が会ってくれているからと、実際のところどう思っていて、周りの人にどのように言っているのかは、本人にしか分かりません。
人は他人のことは分かりません。結局は自分のことしかわからないのです。ですので、コミュニケーションが必要なのです。
パートナーシップとはコミュニケーションを重ねることです。うすけんがどういう考えを持っていて、彼女はどういう考えを持っているのか?少しづつでも言葉を重ねてみてください。
その中で本当に見えてくるものがあると思います。
うすけんさんの心が少しでも軽くなり温かい光に包まれるようお祈りしております。
南無阿弥陀仏。合掌。
質問者からのお礼
ありがとうございます、これからも頑張ります