伝統と原理主義の境。不幸=神仏の怒り?
いつもお世話になっております。
私が尊敬する情報科学の先生がXで、
「未だに、天災や気象現象を『神仏の怒り』と考える人は多く
いる。しかも議員になれてしまうほど支持率が高い。なんでも
かんでも『神仏のせい』にすれば、自力で考えなくて済むから。
だから自分は、宗教の原理主義的なものは嫌いだ」
とおっしゃっていました。
私は、宗教は「生活規範」「安心と励ましを与えてくれるもの」
と捉えています。
昔の人は、不幸な事…災害の発生や疫病の流行が起きると、
「仏様神様がお怒りになっている」
と捉えたと聞きます。
しかし、私は、
「地震だ!身を守れ!備蓄はあるか?火は出ていないか?神仏が見守って
くれている。頑張って知恵絞って、みんなで力を合わせて乗り越えよう」
と捉えています。
私は、原理主義…つまりそのまま文字通りに経典等を捉えることは、
思考停止、理解が浅いと思っています。理解の浅さや霊感商法にも
繋がると思っています。
私は、宗教とは、経典を生活規範としつつ、いかに世渡りをして
いくかを説いてくれているものだという認識です。
「宗教やってる奴なんて狂人」とネットで言っている人がいました。
私は、昨今のゆがんだ宗教観が原因でそういった認識も広まったと
思っています。霊のせい、神仏のせい、墓があるせい、方角が…
お告げが…
お告げに至っては、現代ではメスカリン、アヤワスカの作用や
精神疾患が原因と分かっています。
また、ある工学の先生は、
「自分の感覚では、宗教は『頼る人』と『信じる人』に分かれると
思う。頼る人は、自己分析不足で盲信的、信じる人は客観的な
自己分析ができ、自分の非力さを理解したうえで、足りないところを
宗教の裏付けで上手くバランスをとっている印象がある」
とおっしゃっていました。
私は原理主義者、「頼る人」ではなく、伝統墨守、「信じる人」と
いう立場でいたいです。原理主義者にならず、伝統を守りつつ、
世渡りをしていくにはどうしたらよいでしょうか。
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自灯明 法灯明
拝読させて頂きました。
なるほど…伝統や原理主義者の考えについてその様にとらえていらっしゃる方々は確かにおられるでしょうね、その方々がそうおっしゃる意味もわかる様に感じます。
あなたがおっしゃる様に頼る人ではなく信じる人として生きることはとても素晴らしいと思いますね。
仏教はただいたずらにものごとや伝統を鵜呑みにすることではありません、自らを信じて正しい法や真理を信じて灯火として生きることが大切ですからね。
時代の流れに応じて生き方も様々変わっていきますのでただ無闇に信じることではないですからね。正しいこともその時期や状況に応じて対応策も変わっていくでしょうからね。
いずれにせよ、自らを灯し火として、法・真理を灯し火としてこれからも生きていきましょう。至心合掌
宗の教え
リケブツ様
こんにちは。
悩ましい問いですね。
ただの教えでしかありません。
強制ではないので、示したことを、ご自身がいかに捉え、共鳴し、実践なさるかどうか?
他人は自分ではないですね。
心地よく生きたいという気持ちが芽生えてくると、他人も同じ価値観を求めようとします。
それは人間がやっていることで、仏様がなさることではないかな。
食後、昼下がりの、回答で、、私達もこんなです(^^)
合掌
質問者からのお礼
【剛 士 先生】
お返事いただき、ありがとうございます。
物事の営みは、仏様が干渉するものではない。普通に考えれば
わかる事ですよね。
ただの教えでしかない。教訓であり、ライフハックであり、
処世術である。それだけの事。それがなぜ、陰謀論じみた
モノになるのでしょう。
たとえば、精神科の医者や薬は絶対悪だとか、そういった事。
こういう事を言う坊さん、本当にいるんですよ。
脳の電気信号や受容体の調子が、普通の人より悪い。
だから、お薬やカウンセリングで整える。病苦に対する
正しい方法を使うことを、むしろお坊さんは示すべきだと
思います。
精神科関連のモノを悪者扱いする坊さんは、(敬称付けたくない)
霊感商法です。精神科に行かれたら科学的に解決されちゃうから、
そうしたら、自分の取り分が減るから。
【Kousyo Kuuyo Azuma 先生】
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
私は先日、精神科の先生から
「リケブツさんは浅い理解で突き進む傾向があるから、
相手の発言や文面などの背景を考えたり尋ねたりする癖を
つけたほうがいい」
と指導を受けました。
たとえば経典の文言一つを取っても、
「○○経には××と書いてあるから、そうに違いない」
と盲信するより、
「この経典はいつごろできて、論拠となったエピソードは
なんだろう」
と考えたほうが、より教えを理解できるかもしれないと思いました。
特に神通力的な事を言っている経典などは、仏教は神通力を
否定するので、何かの例えかもしれない、何が論拠だろう、
この経文が本当に言わんとしている教えは何かと考えたり尋ねたり
するようにします。
「伝統だからこうしなきゃ」とかではなく、常に物事への
知識をアップデートし、それに沿って、各々の事象に柔軟
かつ確実に対応できる力を培うのが仏教ではないかと思いました。