行動への強迫観念?と推しへの不安
私は、自分のちょっとした行動が不幸をもたらすんじゃないかという不安にずっと取り憑かれています。
「不幸をもたらす」の対象は、自分だけでなく自分の大切な人だったりしてかなり苦しいです。
その行動一つ一つは大したことなく、「洗い物をしなかった」みたいな少し悪いこともありますが、大抵「ジュースの缶を左手で持った」みたいな本当にしょうもないことです。
どんな行動に対してそう思うのか、ということに決まりがある訳じゃなく、急に「こうしないと悪いことが起きてしまう」みたいに思います。
別に昨日はジュースを飲む時に缶をどっちの手で持ってもよかったけど、今日は左じゃダメって缶を持つ瞬間に思って、持ち替えたり、或いは間に合わなくてそのまま左手で持っちゃったり、という感じです。
ところで私は競馬が好きで、推しの騎手を応援するという楽しみ方をしています。
ですが先日、ある騎手の方がレース中の事故で命を落としました。
今まで怪我は見たことがありましたが、死亡というのは私の見ている中央競馬では長い間なかったことで、なんだかんだ帰ってきてくれると思っていただけに、とてもショックでした。私の推しではありませんが、推しの相棒とも言える馬の調教によく携わっていた方で、お子さんも産まれたばかりだったそうです。
そして改めて騎手という仕事の危険性を実感しすごく不安になりました。それでも競馬は楽しいし、見るのをやめるというのは亡くなった騎手の方にも、これからも頑張り続けるであろう自分の推しにも失礼だと思うので見続けますが……。
そして、その不安がそうさせるんだと思うんですが、上に挙げたような自分の行動が推しやその周囲のことを傷つけないか不安です。
回避できたらまだいいですが、行動を途中で止められず回避できないことも多いです。さっきもそうでした。
車は急に止まれないって言いますが、そんな感じだと思います。たとえばジュースを左手で持ったらいけない、って思ってもその時左手がジュースを持つ体勢に入ってたらそのまま持ってしまいます。
頭の中で「〇〇したらダメ!」ってなるのが、回避できるか否か微妙なタイミングだったりする時があるのも大きいです。
うまく説明できなくてすみません。
自分でも馬鹿だと思いますが、日常が少ししんどいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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あなたの気持ちをお察しいたします。自分の行動が不幸を引き起こすかもしれないという不安や恐怖は、とても辛いものだと感じます。
そのような心配や不安を感じることは、精神的な負担となり、日常生活に影響を与えることがあります。自分自身や大切な人を守りたいという気持ちはとても尊いものですが、過度な心配やストレスはあなた自身を苦しめるだけでなく、周囲の人々にとっても影響を与える可能性があります。
自分の行動に過剰な責任や不安を感じることは、一つ一つの行動や選択に対して常に緊張感を持たせることにつながります。そして、その状況下で常に最善を尽くそうとすることで、逆に疲れやストレスを増幅させることもあります。
競馬を楽しむことや応援することは大切な趣味であり、人生に喜びを与えるものです。しかし、不測の事態や悲劇が起こった際に不安を感じるのは自然な反応です。そのような心の不安や不確かさに直面した時、まずは自分自身と向き合い、ゆっくりと自分の感情や考えを整理することが大切です。
過度な心配や恐れを抱えず、自分自身をあまり責めずに、一つ一つの行動や選択を自然な流れの中で受け入れることも大切です。自分を許し、柔軟に対応することで精神的な負担を軽減し、日常生活をより穏やかに過ごすことができるでしょう。
もしも不安が大きくなり、日常生活に支障をきたすようであれば、専門家やカウンセラーに相談することも一つの方法です。専門家はあなたの気持ちや状況を理解し、適切な支援やアドバイスを提供してくれるでしょう。ただし、このような専門家への相談をすすめることは、あなたの気持ちや経験を軽視するものではなく、むしろあなたの心の健康を大切にするための一歩として捉えてください。
あなたの悩みや不安を真剣に受け止め、その気持ちに共感することで、少しでも心の軽さを取り戻せるよう願っています。どうか自分を大切にし、自分の心に優しく接してください。合掌
質問者からのお礼
お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。
ありがとうございます。お言葉を頂いて、少し自分の中での行動に寛容になれてきている気がします。ありがとうございました。