慚愧について
前回お優しい言葉をかけて頂いたお坊さん方には大変申し訳ないです
僕はまたしても我欲(悪を行おうとした)の為に阿弥陀様やお釈迦様、仏法を謗る様なことを考えてしまいました
また、YouTubeにて阿弥陀様の本願に関する法話を視聴したのですが、集中できず何度も残り時間を確認し、だらけた体制で聴いて寝かけたり、最悪の態度でした
これらの行為は深く悔いて、慚愧の心を以ってしか救われないと知ったのですが
余りの罪の重さに、僕は全ての罪を慚愧しきれるのか
口だけしかできないんじゃないか
慚愧の心も阿弥陀様の大悲もすぐ忘れてしまうのではないか
一瞬だけ罪悪感に焦って謝罪をしておきながら
少し経ったら全く気にしていないかの様な、呑気な態度で暮らしていたり
聴聞を聴かせて頂こうにも、先人方が説かれた聴聞の心構えも守れず、更なる謗法を犯してしまうかも
そもそもhasunohaで頂いた意見を無碍にしてしまうかもで心配です
元々我が身可愛さで浄土真宗を調べた身で、知識も半端で心から極楽に往生したいとも思えていません
また、罪を心の内に隠すことは最悪の行為とされている様で
既に消去した一万超えの違法ダウンロード、(もっと多いかも)のアップロード、中傷行為、中傷行為後、謝罪や罰則を家族から意見を貰っていたことを隠していること、友達についた嘘、親に対して五逆罪になる様なことを思ったこと、全て本人に謝罪をするべきなのでしょうか
毎回要領を得ない駄文で、申し訳ないです
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煩悩にまなこさえられて
ご質問拝見させて頂きました。
親鸞聖人は大変煩悩を除くという事に熱心な僧侶でした。多種多様な修行を実行され煩悩がなくならないか、を挑戦されましたが、結果的に煩悩はなくならないことに気づかされます。それを和讃でこのようにおっしゃっています。
煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり と。
私の眼は、煩悩によりさえぎられて、真実を見ることが出来ません。しかし阿弥陀如来の大悲は常にわが身を照らしてくださっているのです。という意味です。
心から極楽に往生したいとも思えないのも、煩悩のしわざなのです。ですから私たちはそんな煩悩にまみれておりますが、阿弥陀如来はそんな私たちも一切区別することなくお救いくださるとおっしゃっています。それに気づけたのなら、もう私たちが出来ることはただただ感謝をお伝えするしかないと感じるはずです。それが念仏です。感謝の言葉こそが念仏です。 合掌
質問者からのお礼
些細様、ご回答ありがとうございます
ここ最近は浅い知識の為、好きなライトノベルや漫画を[自分の煩悩を増長させる危険物]扱いしたり
できもしないのに家族や趣味から離れるべきかと考えたりで、結局自分はどうすべきなのかが全く見えていませんでした。
そんな僕に道を示してくださった些細様、親鸞聖人、阿弥陀様に改めて、ありがとうございました