諦める(明らめる)には
こんにちは。
私は、家族に対する期待があり、それを得られないことで苦しんでおります。それを諦めることはできるでしょうか。
私が家族に期待することは、たとえば私が泣いていたら「大丈夫?」「そばにいるよ」などの心配や寄り添いをしてもらうことです。
私の家庭環境は、仕事命で子供には無関心だった父、幼少期に喧嘩して大人になるまで無視され続けた兄、過干渉で頭ごなしに怒る母でした。家庭の中で安心して甘えられる相手がおらず、友人も少なかったです。
大人になって現在、私は結婚して夫と二人暮らしです。夫は付き合っている時は愛情表現が割とあったのですが結婚してからはすっかりなくなりました。さらに、どうやら夫は発達障害の特性があるようだと分かり、他人に共感することがとても苦手な人なんだということが分かりました。
こういうわけで私の家族は、私が求める形で寄り添える人はいません。愛情はそれだけでは無いと頭では理解しています。
父は、お金は何不自由なく出して育ててくれましたし、兄との喧嘩はお互い様です。母の過干渉も心配や愛情からくるものだと理解しています。夫が共感が苦手なのは別に悪いことではありません。
それでも、私は自分が誰かの目の前で泣いている時に誰も声をかけてくれないことが心から辛いです。自分には心配される、愛される価値がないんだとまで思ってしまいます。
「まずは自分から愛すること」や「自分で自分を愛すること」を心掛けてはいるのですが、なかなかうまくできていません。心のどこかで愛されてない自分を諦められない、もしくは納得いってないのかもしれません。
仏教では、諦める=明らめる、ということだと知りました。現実を直視しそれを受け入れて楽になることは私1人でもできるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
今の1秒に悲しみはあるか
難しいことではありません。
今の1秒間には大した悲しみは無いと気付き、目の前の1秒間を鼻歌混じりにリラックスして過ごせば良いのです。
たとえば、あなたはいつか必ず死にます。
それが40年後か、1週間後かはわからないし、どちらであっても、今の1秒間の人生には大差ないのです。
お坊さんは、お葬式の休憩時間にでも冗談を言って笑っているご遺族をたくさん見ます。
素晴らしことです。
未来と過去が悲しくても、今は笑える余裕があるなら、笑って良いのです。
過去は過ぎ去りもう無い。
未来はいまだ来たらずまだ無い。
心は瞬間瞬間に浮かんて消える。
いつも新鮮な新しい心、新しい自分だと明らめましょう。
とりあえず、好きな歌を見つけて口ずさみましょう。
ご質問拝見させていただきました。もちろん、現実を直視し受け入れれば~は1人でも可能です。が、実際、楽になるというまでには時間がかかるものです。どうしても孤独を感じて楽になるということはなかなかございません。例えばこの場所のようなハスノハで、色々な人からお言葉をもらったり、愚痴を含めあなたが吐露することで少し前に向きやすいのではないかと思います。心の内をまた吐き出していってくださいね。ちなみに、諦めるという話は、自己を見つめなおすことで、己を知る、ということだと私は解釈しています。それを「明らめる」ということかと。つまり問題が何かを確認する、という作業だと私は思っています。自分探しの重要性を説いている言葉でもありますので、参考になれば幸いです。
質問者からのお礼
お返事ありがとうございます。
今の1秒間に集中すること、己を見つめ直すこと、いずれも私1人ですぐにとりかかれることだと思いました。
特効薬はなく、どうしても時間はかかるものだということもあきらめて受け入れながら、楽しんだり、こちらでまたご相談などしながら乗り越えていきたいと思います。