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諦める(明らめる)には

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有り難し有り難し 11

こんにちは。
私は、家族に対する期待があり、それを得られないことで苦しんでおります。それを諦めることはできるでしょうか。

私が家族に期待することは、たとえば私が泣いていたら「大丈夫?」「そばにいるよ」などの心配や寄り添いをしてもらうことです。

私の家庭環境は、仕事命で子供には無関心だった父、幼少期に喧嘩して大人になるまで無視され続けた兄、過干渉で頭ごなしに怒る母でした。家庭の中で安心して甘えられる相手がおらず、友人も少なかったです。

大人になって現在、私は結婚して夫と二人暮らしです。夫は付き合っている時は愛情表現が割とあったのですが結婚してからはすっかりなくなりました。さらに、どうやら夫は発達障害の特性があるようだと分かり、他人に共感することがとても苦手な人なんだということが分かりました。

こういうわけで私の家族は、私が求める形で寄り添える人はいません。愛情はそれだけでは無いと頭では理解しています。
父は、お金は何不自由なく出して育ててくれましたし、兄との喧嘩はお互い様です。母の過干渉も心配や愛情からくるものだと理解しています。夫が共感が苦手なのは別に悪いことではありません。
それでも、私は自分が誰かの目の前で泣いている時に誰も声をかけてくれないことが心から辛いです。自分には心配される、愛される価値がないんだとまで思ってしまいます。

「まずは自分から愛すること」や「自分で自分を愛すること」を心掛けてはいるのですが、なかなかうまくできていません。心のどこかで愛されてない自分を諦められない、もしくは納得いってないのかもしれません。

仏教では、諦める=明らめる、ということだと知りました。現実を直視しそれを受け入れて楽になることは私1人でもできるでしょうか?

2024年5月17日 16:48

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

今の1秒に悲しみはあるか

難しいことではありません。
今の1秒間には大した悲しみは無いと気付き、目の前の1秒間を鼻歌混じりにリラックスして過ごせば良いのです。
たとえば、あなたはいつか必ず死にます。
それが40年後か、1週間後かはわからないし、どちらであっても、今の1秒間の人生には大差ないのです。
お坊さんは、お葬式の休憩時間にでも冗談を言って笑っているご遺族をたくさん見ます。
素晴らしことです。
未来と過去が悲しくても、今は笑える余裕があるなら、笑って良いのです。
過去は過ぎ去りもう無い。
未来はいまだ来たらずまだ無い。
心は瞬間瞬間に浮かんて消える。
いつも新鮮な新しい心、新しい自分だと明らめましょう。
とりあえず、好きな歌を見つけて口ずさみましょう。

2024年5月18日 14:07
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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ご質問拝見させていただきました。もちろん、現実を直視し受け入れれば~は1人でも可能です。が、実際、楽になるというまでには時間がかかるものです。どうしても孤独を感じて楽になるということはなかなかございません。例えばこの場所のようなハスノハで、色々な人からお言葉をもらったり、愚痴を含めあなたが吐露することで少し前に向きやすいのではないかと思います。心の内をまた吐き出していってくださいね。ちなみに、諦めるという話は、自己を見つめなおすことで、己を知る、ということだと私は解釈しています。それを「明らめる」ということかと。つまり問題が何かを確認する、という作業だと私は思っています。自分探しの重要性を説いている言葉でもありますので、参考になれば幸いです。

2024年5月17日 17:56
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有り難し
おきもち

真宗大谷派の僧侶です。2024年4月25日にこちらに登録させて頂きました。...
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質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
今の1秒間に集中すること、己を見つめ直すこと、いずれも私1人ですぐにとりかかれることだと思いました。
特効薬はなく、どうしても時間はかかるものだということもあきらめて受け入れながら、楽しんだり、こちらでまたご相談などしながら乗り越えていきたいと思います。

「認められたい・承認欲求」問答一覧

認められず悔しいです

半分は愚痴だと受け止めてください。 私は医療の教育機関で専門職を育てる教員をしています。今の職場で働き始め約15年。ただがむしゃらに学生と向き合う時期を経ながら今は中間管理職です。 学生と向き合う事が好きで、学生の為に変化が必要だと考えれば、臆する事なく上司に意見する性格でもあります。 今時世代を受け入れるための努力もしてきたつもりです。 私が勤める学校は医師会立であるため、校長はじめ経営者側は医師になります。特に今の経営陣はお金、お金、そればかりです。 確かに慈善事業ではないのでそれも理解できますが、私達教職員みんなでアイデアを出し合い、努力し学生確保をしていることを認めてもらえません。 学校の将来の為、一緒に努力してくれと言われた時も、定年間近に控えた私が躊躇していると、定年制を引き上げる約束もしてまらいました。 学生と関わる事が好きで、学生を育てたい思いがあり悩みながら引き受けました。しかしいざ定年年齢が近づいてきたら、再雇用でしか雇用継続はしない、と。 つまり給料カットを受け入れなけれは、辞めてもらって良いと言う話しに変わっていました。 嘘をつかれ約束はうやむや。挙句会議の席で、私や再雇用者を馬鹿にするような発言をされ、悔しくて、悲しくて、帰り道涙が止まりませんでした。 定年年齢に近く、再就職先を見つけるには、今までより大変ですが、今は退職しようと決めています。 人は簡単に嘘をつく。経営のためなら、雇用者をなんとも思わない人が本当にいる。悲しい世の中だと思っています。 人生80年時代でも、60になれば会社は人を必要としないのでしょうね。 愚痴を読んでくださり、ありがとうございました。

有り難し有り難し 3
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嫌われたくない「いい人」の自分がつらい

嫌われたくない、という感性が幼少期から強く根付いており、34歳となった今でも付き纏っています。 仕事、友人、家族に対して常にいい人でいようといます。 自分が気付き手を差し伸べられることは率先して進め、助けを求められれば断ることはありません。 それによって自分自身に充足感を感じることもありますが、 「いい人」「頼りにされている」自分に疲れているように感じます。 仕事を進めて行く上で何かトラブルがあり、頼られるのは自分ですが、「それは別に今自分じゃなくてもよくない?」「なぜ自分より暇そうな上司に頼らないのか」 と、不満を感じながらも笑顔で対応してしまいます。 また、仕事の進捗にほころびを見つけるのが早く、自分がそれを根回しやフォローなど処理しようとする都度に、なぜこんなことも他の人間は気づかないのか、やらないのかと憤りを感じます。 友人との付き合い方もそうで、気の乗らない飲み会や旅行を断るのが苦手で「世話になったから」「恒例だから」と滅私し付き合ったりすることもしばしば。 家での過ごし方では、結婚2年目で妻と二人暮らしですが、共働きのため基本的な家事や買い物は自分がやっています。 妻が家事ができないわけではなく、 これは元々は妻に働かせてしまっている甲斐性のない自分のせめてもの罪滅ぼしだと自分で決めて進めていました。 しかし時折休日に1人で出かけて帰ってきたら何もせずにただベッドで一日中ゴロゴロとしている妻を見ると、自分で決めたことでも少し腹が立ち、心身ともに疲れを感じます。 自分自身振り返ると冒頭でも書いたように、「嫌われたくない」という感情があまりにも根付きすぎおり、 間違っていることを間違っている 嫌なものは嫌だ そう言えない自分の弱さが招いた種だと感じています。 嫌われたくない自分をやめ、勇気を出して行動するか そのままの自分で、考え方を変え、頼りにされている自分を誇りに思えるよう努力するか どうかご助言をいただきたいです。

有り難し有り難し 3
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自分を被害者だという思い込みから出れない

お世話になります。 私は、胎児の頃に父の大声のトラウマを受け、バーストラウマという状態を認定されていて、要は物心ついた時から、精神疾患持ちです。 また、性被害などにあった経験もあり(自分なりに乗り越えてきました)、イジメや虐待など色々辛いこともあり、病に対しての不服が強く、不平等感が強く、すぐに人と比較し、私はやっぱり不幸だ!というわがままが多いです。 結局悩んでることは、無いものねだりです。 無い物ねだりがとても強く、あ在るものを見れないです。 ですが、在るものを気づく頭や能力はあり、「でもこれがある」と頭では分かります。ですが、それを信じる力がないです。 もう無いものねだりは疲れました。この生き方をいい加減やめたいです。38年、無い物ねだりを、重箱の隅をつつくように不幸ばかり見てきて、疲れました。いくら幸せがあっても、これでは常に不足の生き方です。 あるもの見ればいい→それは出来ない、というのも疲れました。 いくら生き方を変えよう!としても、変わりません。私は不幸だ!誰より不幸だ!という悲劇のヒロインもやめられません。幸せだと満足だと、ほぼ感じられず、何をしても不服です。 精神疾患は、解離性同一性障害、複雑性PTSD、躁うつ病など色々あります。ストレスから指定難病にもなりました。 お世話になってる精神科医もいて、そこの施設にも通っていて、そこにもナース、カウンセラーさんもいて、何かあるとすぐ相談に乗ってくれますが。 「ぐりさんには、もう教えることはありませんよ」と言われてて医師からも似たようなことを言われ、多分治療はもう十分です。 また努力家な自分ですがそこに満足できず、何冊も本を読み、人に相談をしたら書き残し、自分と散々向き合い、努力はしても、満足できません。在るものをみる。それがどうしてもできません。 過去への執着をへらす、色々マインドフルネス等もしてます、ですが、どうしても苦しくて死にたくて仕方ないのです。 ですが本当は幸せ者なのも頭では分かってます。 大切な人達も健在です。何より大切な事です。居場所もあります。 もうこれ以上頑張るのも疲れました。 私はこれからどうしたらいいですか?どうしたら不足、不安、不満に覆われず生きれますか? 拙い文書ですいません。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

時に不安な努力

劣等感から来る努力が、時に辛く、不安になることがあります。 私は現在いくつかの分野を並行して勉強しています。 しかしこれは、よき自分の姿を追い、理想に近づくための努力です。欠けている自分は認めたくないプライドの高さを自分でも感じます。 その分野に詳しい人と話したりしても、結局知らない知識を知る機会があるときは、『自分はそれを知らない』=『自分はできない』と感じてしまい、否定感が強くなります。自分はそんな自分の感情を認知した時、このくだらなさを超えられない幼稚な自分に落胆します。前は知るほど知的好奇心的な喜びがありましたが、しばらく勉強してきているのである程度知識がついたせいか、今度は喜びがなくなり、自分はできるという錯覚が残ったまま、知力が落ちている気がします。 こんな努力をしても、結局動機が劣等感ならば、私はどれだけ頑張っても本当の意味で心が豊かにはならないのだな、と思うと今勉強していることも無意味な気がしてきます。 暗い文章ですみません。楽しく、本当の意味での学習をしていきたいです。どうしたらそのように生きられるでしょうか。同じ分野を勉強している人にも心を開けません。

有り難し有り難し 27
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変わりたいです

私は自分勝手な行いで人をたくさん傷つけてきました。 そしてそのことに呵責を殆ど感じていませんでした。 具体的には、小・中学校での、所謂いじめのことです。 私自身同級生から結構ひどい扱いを受けていたのですが、身の回りの大人に相談してもその場しのぎの表面的な対応しかしてもらえず、苦しい思いをしました。 しかし、それで、じゃあ同じことを人にはするまいという転換をせず、自分がされたのだから人にもしていいと平気で思うようになっていました。 関係のない人たちに対してもです。 穏やかな環境に移ったあとも、何かあると慰めてもらいたくて大げさに気をひいたりと人の優しさを故意に利用するようなことを何度も繰り返しました。 成人する間際で、私に障害の診断が下りました。 以前から疑いはあり、それでいよいよ「障害があるから仕方なかった」という、責任転嫁と自己憐憫の思考を強化してしまいました。 実際私にとって明らかに理不尽な状況はあったのですが、それ以外の場面でも、今になって生々しく思い出すということは、やはり当時から「悪いことをしている」という自覚はあり、本当に自覚していれば思いとどまれたのだろうと思います。 当時の友人や同級生とも自ら絶縁してしまいました。 もし機会があれば、あるとして何年先なのかわかりませんが、会って謝りたいと思っています。 自分の態度について見ぬふりをしてきたことが本当に恥ずかしいです。 心を入れ替える、というのは言葉では言えても実際にはできませんが、この苦しさを背負いながら人のためを想って行動し、傷つけられた時も赦していこうと強く思います。 てすが、情けないですが、今の私にはこのことを話しても叱ってくれるような人もおらず、気を抜くとまた防衛が働いてこの罪悪感も隠蔽してしまいそうです。 第三者であるお坊さんに一喝していただけませんでしょうか。 また、私はこれから身の丈に合う幸せを求めてもいいのでしょうか。

有り難し有り難し 2
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心から素直に謙虚になりたい

こんにちは。 人間関係の中で、すぐに傲慢になる癖を治したいです。どんなことから始めれば良いでしょうか? ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ 例えば、 部活動でリーダーを務めた時、私の言うことに対して指摘をする部員がいました。その部員が言う意見には一理あるのですが、リーダーは私なのに何故そんなに指摘するの?と責められているような感情を抱くことがありました。 かたや、リーダーでありながら他の部員の意見を素直に聞き入れ、常に謙虚に学びの姿勢で居る子もいて、どうしてそんなに素直に謙虚でいられるの?どうしたら私もそうなれるのか?と悔しい思いをしました。 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ また大学の課題について、先生と今後の方針を進めているときに、先生があれやこれやと付きっきりでたくさん考えてくださっていたのに、その付きっきりな状況に疲れて少し休みたくなり、先生に「いつも急かしてくださいますね」的な、かなり嫌味っぽい言い方をしてしまいました。 後日、先生から、付きっきりで考えていたのにあなたが乗り気じゃないなら、私ももうあまり関わらないようにする。しつこくしてすみませんでした、という内容のご連絡をいただきました。この時は私も流石に酷いことを言ったと自覚があったので謝罪をし一旦は和解しましたが、私はなんて傲慢で謙虚さのかけらもない人間なのか、と痛感するようになりました。 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ 小さい頃から、人より勉強ができたり比較的器用にこなせたことから、なんとなく優位な位置にいて、それが故に人を見下す癖がついてしまったり、自分が人より優れていないと気が済まないような性格になったのだと考えています。 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ 前述のエピソードがとても幼稚で醜いものであることは重々承知しています。書きながら自分でひいてしまいました。この思考のままでは今後の人生に大きな足枷になってしまうと自覚しています。だからこそどうにか変わりたく、こちらに質問をさせていただいてることをご理解いただけますと幸いです。 ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ お坊さんは謙虚な方が多いイメージですが、どういった心構えで物事と向き合っているのでしょうか。また、参考にしている人、本、教えなどありますでしょうか。 今の私は皆様にどのように映っていますか?素直に謙虚に生きていきたいです。どうか知恵を貸していただけますと幸いです。

有り難し有り難し 11
回答数回答 2

自分の弱さと罪悪感について

はじめまして。私は今大学3年生で1年生のときから馬術部に所属しています。しかし7月からその馬術部を休部することにしました。理由は部活が怖いとずっと感じていたことと自分のやりたいことを優先したいと思ったからです。 一つ目の部活が怖いというのは、私の自己肯定感が低いため些細なことで自分を責めてしまうからです。馬術部では馬の世話、練習、会計の事務作業など仕事は多岐にわたります。私はそれらの仕事を通して他人に評価されるのが怖いと思ってしまいます。仕事ができる人だと思われたい、バカだと思われたくないという思いが強すぎて仕事をするのが怖くなっているのが現状です。本当の自分は大した人間じゃないのに実力以上に見せようとしているから辛くなります。頭の中ではわかっていてもいざ仕事で失敗して誰かに怒られた時に「自分はなんてダメなんだ」と思うのがとても怖くて逃げてしまいました。 二つ目の自分のやりたいことを優先したというのは、3年になって就活を少しずつ始めて自分は地方就職に興味があることに気づきました。またずっとカメラや民俗学や社会学などの学問も気になっていて、他にたくさん優先したいことができて部活が煩わしくなってしまいました。 最初のうちは「自分のやりたいことはやらないと」という考えで休部したことは仕方ないと思えていました。しかし休部する旨をコーチの方に話したところ、「今までやってこれたのは馬と部員のおかげだったことを忘れないでほしい」と言われました。その言葉を聞いてはっとさせられました。ずっと私は自分のことばかり考えて被害者面をしてきたけど、確かに馬と部員のおかげで経験・成長できたことがたくさんあったのだと思い出しました。私はそれに気づいてからなんて無責任なことをしてしまったんだという罪悪感がずっとあります。馬は生き物なので本来なら人間の都合で世話を放棄していいものではないのに私はしてしまいました。馬にも申し訳ないし、その馬たちを今も世話をしてくれている部員たちにも申し訳ないです。 今回の原因は自分の弱さから逃げてしまったことだと思います。私はどうやって自分の弱さに向き合えばいいでしょうか?またこの罪悪感は背負わなければいけないものでしょうか?

有り難し有り難し 21
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子供の失敗による、私の自責の念

お世話になっております。 ご相談したいのは、自責の念の整理の仕方です。 私は子供が3人おります。長男はおふざけが大好き、無邪気でとても明るい子ですが、たまにおふざけが過ぎてしまう事も。 学校でお友達のキーホルダーが面白くて、触らせて貰っているうち、度が過ぎて壊してしまった事がありました。 お友達のお母さんにご連絡をして、精一杯謝罪をしました。弁償も申し出ましたがそれはお断りされ、私が電話した事にも恐縮されたご様子でした。 長男に対しては、どんな物でも、その子のお母さんやどなたかが買ってくれたもので、もしかしたら思い入れがある大事なものかもしれない。そういったものは壊しちゃったら、弁償したくても、同じものはないんだよ。と話すと、子供は既に先生から怒られているので耳が痛そうでしたが、反省したようでした。 問題はその後で、こういった子供の失敗を、私が心の中でいつまでも引きずってしまうのです。 私がもっと言い聞かせておいたら、とか、何度も教えたことなのにどうして分かってくれていないんだろう、とか、お友達は壊れたキーホルダーを見て悲しんでいるかな、とか。子供がかけた迷惑は、私の至らなさが原因です。 長男はおふざけ大好きなお調子者、危なっかしさから普段から色々と教えてはいますが、実際に何か起こるまでは私が伝えていることも中々響かず…。響くように言えなかった私がダメなんだなあ、とそこでもやはり反省と自責で、心の中でクヨクヨしてしまいます。 そして、実際ご迷惑を被った方がいらっしゃるので、自責をやめて切り替えてしまうのって、良くないことじゃないかな、とも思います。 自分を責めるのはあまり良くないことでしょうか?また、切り替えるとしたらどんな考え方をしたらいいでしょうか。

有り難し有り難し 6
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ