相互理解についてお釈迦様は?
いつもお世話になっています。人間関係についてですが、短期間に友人と縁が切れ、しかもケンカ別れになり人間不信になっています。いや前からかもしれませんが、相手を理解しようと努力し、また自分の事も理解してほしいと思っていましたが、全てカラ回りでダメでした。昔から思っている事でしたがこういう事があると切実に思うのですが、相互理解なんて人間には最初から無理なんでしょうか?そういう願望自体、叶わね事を求める煩悩なんでしょうか?お釈迦様は人間関係や相互理解について何とおっしゃっていますか?回答お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦悩があるから智慧が芽生え成長していきます。
ケンカ別れはどの境遇においても煩悶するものでシコリも多少なりとも残ります。
そのシコリとなる残りものは「反省」という"なぜ?このようなことが起こったのか?"という自己を省みる行為が焦点となることと思います。
親友・友達・友人の定義というものも個々によって不確かなものです。
子どもを通じてのママ友、学生時代のときの友達、地元での友達など、◯◯の友達と先行に◯◯が付くことが多いもんです。
人としての友達が生涯を通じて付き合いできる友であると思います。
利益のため、寂しさのためなどでは真の友達は永遠に出来ない利己的見解な視座であり、余計な邪念がない状態とした心をもって入り口となる交際を互いにもつことが肝心となることと察します。
よく「何でも言えるのが友達」という人がいますが、それは世間の作った認識であり、「何でも聞き合える」のが友達です。
話し言葉では、自慢ではなくとも相手の立場によっては自慢と捉える人もいます。
社会に出るとさまざまな経験をすることで、自身の在り方が知らずと形成され心が構築されています。それが個性というものです。
その大人になると知識を含む発する言葉に、相手が求めていないことを話すのではなく、求められたときに話すのが知識の使い方であって、大人というものは知識があるからこそ、余計なことを話さないのが大人でもあります。
いわゆる理性は心ですが、制御できなければ口や手足がともなって働きます。
相手から嫌悪感を抱くような発言が続くときは、指摘することも必要であり、付き合いしていかないと決意している場合は余計なことは言わないで自然に去っていくことです。
友達がたくさんいるから友達でもなく、友達が居ても自身の心の居場所がなければ友達はかえって不要ともなり得る恐れがあります。
人は少なからずとも欲求心理があるものです。互いに理解してもらうには少しずつ出し合うことで、理解を深めていけるものです。
チャトラさんのおっしゃる通りに、相互理解はとても難しいです。人々の悩ます問題の9割は人間関係です。
中でも人間関係や友達は欲するものであるからこそ、「求め過ぎない」「与え過ぎない」「反応し過ぎない」この"過ぎない"を心に練習していけば、自然とこなせるようになります。
しかし、それでも生涯修行でもあります。難が無いように"ほどほどが一番"となります。
質問者からのお礼
法源さま、回答ありがとうございます。人間関係はほどほどみたいな感じですね。あまり人間に期待しないほうが逆に健全な気がします。悲しいですが。考え方や人生経験がみんな違うのでそこんところの溝?や理解をえられるのかは、よくわかりません。無理なような気がするのが今の心境であります。人間関係についてはまた視点を変えて質問したいと思いますので見かけましたらまた回答お願いいたします。