よい行いを実践するために
いつも回答を拝見し、勉強させていただいております。
さて今回ご質問するのは、私が体験したことに対する心の持ちように関してです。
先般、街を歩いていたところ、前方に歩きたばこをしている高齢の方がおり、吸い殻を平然とポイ捨てされました。
その瞬間強い不快感を覚えましたが、自分が吸い殻を拾うかどうか悩んだ挙げ句、結局通り過ぎてきてしまいました。
気持ちよく拾う事ができるのが理想なのですが、どこかに「誰も見てないのにそんな事しても無駄だ」という気持ちもあるのだと思います。
しかし、見て見ぬふりをしてしまったことに対する後悔も残っています。
陰徳を積む心掛けが大切だと頭で分かっていても、現実生活での実践となるとどうしても勇気が出ません。
もしお坊さんの方々がこのような状況に出会ったとき、どのような心で、どのように行動されるのでしょうか。
お忙しいところとは存じますが、一言でもアドバイスいただけると幸いです。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
布施とは不貪なり
『修証義』第四章に「布施とは貪らざるなり。自らが力を分かつなり。」という一節を読んだことのある方も多いと思います。この言葉の原文は、道元禅師が書かれたの『正法眼蔵菩提薩埵四摂法』の中の「布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。むさぼらずといふは、よのなかにいふ、へつらはざるなり。」です。
不貪というのは、物を惜しんだり骨身を惜しんだりせず、欲張ったり執着しないことです。
布施とは、わかりやすく言えば、「与える」ことです。地震で住む場所も失い、衣食住もままならない状況の方に、けち臭い気持ちを捨て去って自分の財物を分け与えることです。財物だけでは無く、言葉を掛けてあげること、手を貸す、手を差し伸べてあげることも立派な布施です。
私達の心には欲望があり執着があります。「貪り」の心があります。それが布施を実践する事の妨げとなっているのです。むさぼりの心を捨てて、物を惜しんだり骨身を惜しんだりする心を棄て去って、与えるべき時に財物を施そう、手を貸してあげよう、力を貸してあげよう、言葉をかけてあげよう、と道元禅師は説かれています。
>
自分が吸い殻を拾うかどうか悩んだ挙げ句、結局通り過ぎてきてしまいました。
頭で分かっていても、現実生活での実践となるとどうしても勇気が出ません。
>
勇気が出ないのではなく、あなたは骨身を惜しんだのです。吸い殻を拾うことを面倒くさがったのです。
貪りの心が働いて、「拾う」という行動が出来なかったのです。
布施とは不貪なり。この言葉を常に自問自答し、惜しむ心を捨て去り、布施行に努めましょう。」
質問者からのお礼
吉田俊英様
お礼が大変遅くなりました。申し訳ございません。
確かに、自分の中にある貪りの心があることから、布施を実践できなかったのだと納得しております。
自己の中に原因があることから目を逸らし、他に答えを求めようとした愚かな自分がありました。
これから、まずは己の貪りの心に気づき、改めることより始めたいと思っております。
貴重なお言葉、有り難うございました。
吉田俊英様
お礼が大変遅くなりました。申し訳ございません。
確かに、自分の中にある貪りの心があることから、布施を実践できなかったのだと納得しております。
自己の中に原因があることから目を逸らし、他に答えを求めようとした愚かな自分がありました。
これから、まずは己の貪りの心に気づき、改めることより始めたいと思っております。
貴重なお言葉、有り難うございました。