hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

気になるあの世回答受付中

回答数回答 1
有り難し有り難し 11

自分はクリスチャン家庭で育ちました。天の父(神)とキリスト(神の子)を信じれば救われるという教えで日々祈り、聖書を学ぶということを約12年間続けて高校生である時ふと疑問に思うことがありました。

仏教もイスラム教もヒンドゥー教もキリスト教もどの教えも悪ではなく善を教えていて、どの教徒も疑うことなく自分の信じたモノに誠心を捧げて真摯に向き合っているのにどれかが答えで他はアウト、地獄に落ちる、罰をくらうというそんな酷いことあってたまるのだろうかと。
ましてや生まれつきの環境もあるだろうし、出会い方もそれぞれだろうし、無宗教もいるだろうし、そんな一つのものに答えがあるのなら世界人口の三分の二以上は落ちるのではないかと。
母に言及すると跳ね除けられてキリストを信じれば救われるの一点張りです。
牧師にも言及しましたが『信じないものたちは終わりの日(キリスト再臨の日)に悔い改めるチャンスがある。信じなさい』と言われました。
個人的にはそれがすごくショックで幻滅しました。

そこで自分は宗教というものから一旦離れて自分なりに解釈してみました。
この地球を一種の魂の試験場だと考えて良い行い(人に感謝されること)をし、肉体的にも精神的にも人として成長し、全うして生きれば魂ポイントが上がって皆等しく天国に行き、当分そこに留まった後また輪廻転生し、悪を働けば魂ポイントがマイナスになりその回収として地獄で訓練的なものをする(借金状態)、回収後は輪廻転生。
そしてこれを繰り返して魂ポイントがある一定数貯まると次のステージ(4次元とか5次元)でまた訓練して魂レベルを高めて最終的のゴールとして神(世界の創造主)と一体化もしくは神に近づく、という結論に至りました。
先祖様、守護霊様の存在は固く信じてます。
ぜひ僕の考えについてご指摘あれば伺いたいです。
またお坊さんとしての解釈、回答者様自身の解釈を聞かせていただきたいです。
最近この事でムヤムヤしてろくに眠れてないです…。
母親とも不仲状態です。

2024年9月10日 4:50

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信仰も業だから善の信仰になるように

仏教を始めたお釈迦様が、あなたが考えたのと同じようなことを言っています。
 すべての生命が自分の意志(意業)で言葉を発し(口業)、行動する(身業)。それは当然、自分に帰って業になり、次の自分の心身を作り、また自分の意志(意業)で言葉を発し(口業)行動する(身業)。だから、身口意の行動≒業が善であるように、悪にならないように、気を付けて、考え、語り、行動すべき、と。
 もちろん、自分一人の行為ではなく他からの影響、他への影響も含みますので、つまり因果だけでなく因縁果ですので、自分で気を付けていても誰かに何か言われて怒ってしまった(悪業)りするので油断大敵です。
 お釈迦様は仏教という宗教の開祖というより、以上の業の法則が全生命共通の真理だと、ただの事実として言います。その上で、仏教を含むどの宗教を選び取るのも捨てるのも、各自の意志に依る業だから、他の行為と同様、気をつけて、と、注意を促します。
 業の法則の中に、信仰という心を中心とする行為も含まれるのです。この教えだけが正しい、他は認めません、むしろ他を信じる人は悪です、などと頑なな心と言動では、頑固で、良い信仰とは言い難いです。
 自分は神様に救われてしっかり生きることができるから、では、誰か困っている人を助けてあげて、神様のお手伝いをさせていただきます、などと信仰を行為に表すと、それは信仰はともかく、行為は善というしかありません。
 宗教・信仰は各個人の見解の一つだとお釈迦様は言います。良い見解・信仰になるように、各人が励むべきだと思います。
 その上で、見解が合わなくて親御さんとぎくしゃくしても、その見解の面は保留にしておいて(お釈迦様は「保留」を、頭を冷やすための良い方法として戒律でも使います。)、他の面では、親御さんに感謝し孝行しつつ、ご自分の体と頭と心の学びを続けて、「立派な大人になるため子供がすべき仕事」(在家信者シガーラさんに教えました。スマナサーラ長老『成功する生き方――「シガーラ教戒経」の実践』角川文庫)を勤め上げてください。決して親御さんを嫌うことがないように。

2024年9月10日 7:48
{{count}}
有り難し
おきもち

初期仏教というか仏教本来の教えを学びつつ、その在家信者のあり方から見た日本...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

返信ありがとうございます!
モヤモヤが晴れました!また色々自分で解釈しました(笑)
宗教の多くはあの世のこと(死後)を重点にして、生きる上で大切な事を教えがちだけど、本当は逆で、まず大切な事はどう生きるか、生きたかという生き様であって死後の事は二の次に考えるべきだと気づかされました。
人の多くは死後について恐れたり、不安がったり、また期待したりするけれども
この世に生まれ堕ちてきたからにはあの世の事なんか考えず、今を真っ当に善悪を弁えて生きることが大切なんだなと思いました。
母親とは仲直りしました。
意見は違えど僕は余程の悪を行わなければみんな天国に行けると信じてるのでキリスト教である母親ともあの世で合流できたらなと思います。

藤本様の話を聞いていてお釈迦様は仏教とかそういう神、宗教云々以前にこの世で生きる上での真理(大切な事)を教えているんだなと、現代で言う哲学者みたいなものだなと思い、興味が湧きました。
スマナサーラ長老『成功する生き方――「シガーラ教戒経」の実践』角川文庫
読んでみようと思います😊
本当にありがとうございました!

「死後の世界・死んだらどうなる」問答一覧

お不動様、私のこと嫌いなの?

 いつもお世話になっております。  私の友人が、病気になりました。私は代参として、ある不動尊寺院に 行きました。顔見知りの職員さんがいたので、その事を話しました。  「私も病気だから、二人とも病気になっちゃったなあ」 と言いかけたら「私も病気だから」まで言いかけたところで、食い込み 気味で 「自分を病気だど思うな。甘えが出る」 と早口で言われました。私はショックでしたが、波風を立てたくなかった ので 「個性だと思っています」 と笑顔で答えました。  そのあと精神科で、心理士さんと話し合って苦情を言うことに しました。カウンセリング後の診察では、心理士さんから報告を受けた 主治医の先生が、 「人の苦しみに寄り添わなければいけない立場の人が、どうして こんな事を言う」 と驚いていました。 「こんな人の言うことは、聞き流せるようになろう」 と助言されました。  診察後、お寺に電話をして、 「私が持つ発達障害という病気は、脳のホルモンの機能不全です。 放っておけば、普通の人が何も感じない場面で、強い恐怖感から 動けなくなるなどの支障が、日常生活に顕著に出ます。それを軽減 するために服薬し、考え方を明るくするためにカウンセリングを受け、 大勢の人の中でも落ち着いて振舞えるように、リハビリを受けています。 リハビリが一番しんどいですが、必要なことだと思って受けています。 もし、『病気を受け入れる=甘え』という認識をお持ちなら、考え直して いただきたいです。病気は受け入れることで、治療や社会復帰に向けて 動いていくのです」 とお伝えしました。  対応してくださった職員さんは、 「リケブツさんは前に比べたら変わった。頑張っているのがわかる。 彼は確かに酷い事を言った」 と平謝りしてくださいました。  翌々日、苦情を聴いてくださったお礼として灯明料を持って 行きました。  本山(そのお寺は本山の別院)にも確認したら、 「お不動様は、精神病の人を甘えてるなんて思いません」 とお坊様からお言葉をいただきました。  しかし、素直に受け取れません。優しい職員さんも多いですが、 本当は皆さんは、私がお寺に来てほしくないんじゃないか。と思って しまいます。  私は今まで参行した不動尊寺院全てで、お坊さんたちから 傷つく事を言われたりされたりしています。  …お不動様、私のこと嫌いなの?

有り難し有り難し 4
回答数回答 2

死んだら無になることへの恐怖

もう何十回、何百回と回答されているテーマだと思いますが、相談させてください。 ここ数ヶ月の間、死が怖いという気持ちが離れず、夜も眠れないくらいです。 私は恐れているのは、死んだら無になる可能性です。 私は科学を信じている(盲信していると言ってもいいです)ので、人間とはただの物体で、感情も脳の反応だと思っています。 だから人は死んだらただの物体になると考えていて、それがたまらなく恐ろしいのです。 私は両親と暮らしていて、日々の生活に幸せを感じています。 しかし死んだら無になるとしたら、この幸せはどうなってしまうのですか? 両親が亡くなり、私も死んでしまったら、全てなかったことになってしまうのでしょうか? いずれ死んで全てを感知できなくなるのなら、この日々も無駄ということになってしまいます。 「一度きりの人生なら楽しめばいい」と思われるかもしれませんが、死んでしまえば「楽しかったな」とすら思えないのです。 それはいっそ生まれてこなかったとしても、結局は同じということになってしまうのはではないでしょうか? 全てに虚無感を感じてしまって、幸せを感じることすら怖くなっている状態です。 しかも死への恐怖は杞憂ではなく、絶対に避けられないという事実があります。 全ての先人が経験していることですが、どうやってこの恐怖と向き合ったのかがわかりません。 科学を信じている私が、今回ここに相談したのは、宗教的なものを信じたい気持ちはあるからです。 かつてお釈迦様も生老病死に悩まれていたと知りました。 その悩みから抜け出せる知恵が、仏教にあるのではないかと思ったのです。 仏教では死についてどのように考えていますか? お坊様は死を恐れていますか? その理由は何ですか? またお坊様は当然ながら仏の世界を信じていると思いますが、信じるに至った根拠や理由はありますか? 尚、両親も私も健康状態に問題はなく、死が差し迫った状態ではありません。(人生、何が起こるかわかりませんが) それでも両親との別れはいずれやって来ます。 私は自分がただの物体になるのも恐ろしいですが、両親が物体になるのはもっと恐ろしいのです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

2025年7月5日4時18分

荒唐無稽であることが望ましい話です。 標題の日時で検査すると、様々なところから滅びの予言がされていることがわかります。東日本大震災の三倍の規模の津波だとか核ミサイルだとかフィリピン沖だとか隕石だとか。事実無根と軽く扱うには根拠が重なりすぎていてどうしても軽視できません。そして私は「問題が起こる=解決できずに全てが崩落する」と強く感じているので、きっともう一年近くの命なのだなと感じています。 私はただ、痛みや苦しみから逃れられない物質世界で生きていたくないだけなのです。死ぬことよりも、死んだ向こう側で過酷な世界に生まれるのが恐ろしくて恐ろしくて仕方ありません。屠殺される家畜。逃げきれなければ捕食される草食動物。餌に釣られて毒殺される害虫。ああいやだ恐ろしいと思うのはいけないことですか? 生きることは恐ろしい。どう生きても自分より遥かに大きなものによって弄ばれて終わるこの矮小な身体が恐ろしい。脳味噌の誤作動と物質世界に永遠に閉じ込められているのが恐ろしい。そんなことを感じてはいけないのですか?苦しみを受け入れられるようにならなければいけないのですか?安心して生きてはいけないのですか?ガンジス川の濁流に飛び込んで疫病を得なければ救われないのですか?生き物の本来の姿とはどんなものなのですか? この時代のこの場所に生まれただけでものすごく幸運だというのに、その中でさえ上手く生きられなくて苦しんでいる私が、災害や大破局に直面した際に恨みを抱かず運命を粛々と受け入れられる気がしません。「だから生きるのは嫌だったんだ!だからこの世界は嫌なんだ!」と恨み憎しみの塊になったまま死んでしまいそうで、すなわち苦しい来世が確定しています。「今、ここ」に集中しようとしても、破滅のカウントダウンを感じるとそれどころではなくなってしまいます。未来が誰にも見えないのが恐ろしいと傲慢な感情を抱いてしまいます。 私が救いを信じられないのは、今までの人生において大いなるものの救いを感じられなかったからです。破滅の信憑性ばかりが高く、破局、混乱、絶望の未来しか待っていないと漠然と感じています。これらを否定したり適切な距離をとったりするには、あまりにもこの世界の矛盾や欠陥が多すぎます。「今ここ」に生きるよりも、「どうしたら苦しまずに死ねるか」でいっぱいです。 安心して生きることは傲慢ですか?

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ