同族(障害者)嫌悪。私が傲慢なだけ?
いつもお世話になっております。
先日、お寺からの帰りに喫茶店でソフトクリームを食べていたら、
隣席の女性から、
「それおいしいですよね」
と話しかけられました。40代くらいの女性だったと思います。
会話が弾んでいたところ、女性は突如
「過呼吸が起きそうだから、会話はここまででお願いします」
と私に要求してきました。私もお茶を飲み終えていたので
承諾したところ、女性は「パニック障害なんです」と
明かしました。
バスに乗って帰路に就いたのですが、悔し涙をこらえて
いました。
「仲間と思われて絡まれた。死にたいくらい悔しい」
私は、病棟で、訓練施設で、身体も心も醜い精神障害者を
たくさん見てきました。私は彼らから「純粋」「お人よし」と
いわれていじめられ、変な噂も流されました。
私も精神障害があるため、気を抜けば自分も醜く見えると思い、
身なりにはとても気を使っています。
私は、移動の際に少々ご協力を賜ることが必要なため、
ヘルプマークを付けています。それで、仲間と判定されたの
でしょう。先述したように、私は精神障害者を「醜い」と
見ているため、自分も周りの方から「醜い」と思われて
いると思います。
さきほど訪問看護師さんが見えたのですが、
「どうして、仲間と思われるのが嫌なの?」
というご質問に激昂してしまい、
「仲間になれというの!?」
と怒鳴ってしまいました。
しかし、私はふと考えました。
「私は、プライドが高いだけのただのバカなのでは?」
「自分の無能さを棚に上げて、優越感に浸って天狗になってる?」
「同一視はされたくないが、私は有頂天になっているだけ?」
看護師さんに、
「もし、世の中の人が全員私と同じ考えを持っていて、私が
お店に入ってきたり電車に乗ったりしたとき、みんな私が
ヘルプマークを付けているのを見て『障害者がきたよ、
気持ち悪い』と囁きあうなどしたら、いやだ」
「私の友人が、私が発達障害を打ち明けた時に縁を切られて
いたらと思うとぞっとする」
と話したら、
「そうだよね。それがまさにリケさんの持つ感情だよ」
と言われました。
「他人が…じゃなくて、自分が幸せになる方法を模索しなさい」
とも言われました。
私が意識過剰、高飛車なのでしょうか?お寺の帰りに
嫌な事が起きると、気が滅入ります…
発達障害があるが、他の患者が苦手、健常者さんに負担を強いる障害者が許せない、 医師の悪口を言う僧侶が許せない、選挙で体調崩す、医師を顎で使ったり「薬減らせ」とごねる患者に辟易 #薬は悪くない
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私もリケですが、、、
お辛い胸の内を書いてくださりありがとうございます。
私も理系でしたが、あまりそう考えたことはなく、理系に対してそう考える、もしくはそう見る方々もおられるのだなと勉強になりました。ありがとうございます。
喫茶店でお会いになった方は、ご自分の話しをされるのに勇気が必要であったと思います。おそらく何かしらの障害を抱えているであろう貴女に自分の苦しみを打ち明けてみたのだと思います。
精神障害にせよ、発達障害にせよ、パニック障害にせよ、それは世の学者さんやお医者さんが、その方々の苦しみを軽減するために研究し対応するために付けたラベルとも言えると思います。
仏さまの世界では、そういうラベル貼りは無いと思うのです。
障害というものをそれぞれの方々が抱える生きづらさと考えると、世の中は生きづらさは多かれ少なかれ全ての人が抱えています。
しかし、人間はラベルで人を区分けすることで差別の意識が生まれることがあります。
勝手にイメージで決めつけてしまうこともあります。
それは、人間の小さな見識で自分の世界を狭く区切ってしまい、さらに生きにくくする行為であると私は思います。
世の中の苦しみを泥の沼に例えると、
如来さまや、菩薩さまは、沼のふちで沼にはまって苦しむ人々を助け上げます。
しかし、沼に沈みこんでもがく人にはなかなか手が届きません。
そんな方々を泥の沼に飛び込んで、沼の底から救いあげるのが不動明王さまです。
お不動さまは泥が汚いなどとはおっしゃいません。お不動さまの強さの源は大きな慈悲の心です。
人間は完璧な人などいません。
欠点を補い合うからこそ、生きれると思うのです。
そんな、弱く欠点だらけな人間という存在だからこそ、仏さまは救いの手を差し伸べてくださいます。
私の書いたことが、貴女にとって不愉快であったり、心が傷つくことであったら私の不徳の致すところです。何卒お許しください。
合掌
質問者からのお礼
【悟東 あすか 先生】
お返事いただきありがとうございます。本当に悔しかった。
きのうは精神科でした。精神科でもこの話をしたら、PSW
(女性)さんから
「下品だから話しかけられた?逆だと思うなあ。むしろリケ
さんはとてもお上品だから、話してみたいと思ったんじゃない
かな」
「私は女として、同じ立場の人でも、汚かったり下品だったり
する人とは話したくない」
「障害者は醜いというけれど、昔に比べたら、社会のその認識は
かなり薄れてきている。むしろ『障害者は助けようね』という
認識に変わってる」
と言われました。
主治医からは、
「精神障害者は醜いだとか下品だとかいう認識は、間違っている。
この認識は、リケさんの親に刷り込まれたものであってリケさん
のせいではないけれど、修正していかなければいけない」
と指導されました。
ここでも嫌なことがあるたび投稿し、そのたび
「括りではなく個人で見なさい」とアドバイスを頂いて
います。
でも、悔しかった私の気持ちは本物です。病棟で、
訓練所で、醜い人たちをたくさん見ているから。
それに加えて両親からの「障害者は汚い」刷り込み。
難しいですが、修正していかなければならないのかも
しれません。
生きづらさは平等、それは確かだと思います。私は、
むしろ健常者さんのほうが大変だと思います。
「つぶやき門前」で家族問題や職場問題の話をきいたり、
道を歩いていても、一人で何人も子供を連れている親御さん
など…
私は、大変そうな健常者さんには、
「お手伝いします」「何かできることありませんか」
と笑顔で声をかけます。
ちなみに最近のハイライトは、客人が自分で料理を
運ぶシステムの喫茶店で、お子さんを二人連れたお母さんに
声をかけ、サンドイッチを運んで差し上げたことです。
そんなことばかりしていたら、プロフィールにあるような
戒名をいただくことになりました。
生きづらいは平等って本当にそうなんですよね。
だから、「私は障害者だから生きづらいのよ~!!」
「優遇しなさ~い」と訴えるのは、お門違いなんです。
障害の有無問わず、助け合わなきゃいけないのが
世の中なのです。だから私は、大変そうな人がいたら、
相手が健常者さんでも(健常者さんだからこそ)
手伝いを申し出ます。
そう。病気や障害という分類は、
苦患の人を救うためのものなのです。
お坊さんの中には悪徳僧侶がいて、
「病気や障害は、分類屋が薬を
売りたくて言っているだけ!
お寺に来い!!」
と喧伝して患者の治療をやめ
させてお金を稼ぐのです。
実際、クラスタでそういう
僧侶を見た時は、はらわたが
突沸するかと思いました。
これで、仏教が誤解される
のだと。
お不動様のお話を読み、
初音ミクの「深海少女」という
曲を思い出しました。
今なら心を込めて歌えそうです。
ちなみにこの「深海少女」には
アナザーバージョン(反歌)が
あり、まさに、悟東先生の
お不動様のお話とピッタリ
合致します。
歌詞読んで泣きました。