死にたくなるほど嫌いなものとの向き合いかた。
初めて質問させていただきます。
長くなりますが、宜しくお願いします。
私は、小さい頃から魚介類が大嫌いです。
それは今も変わらず、ここ数年は全くと言っていいほど口にしていません。
唯一食べるのは、笹かまぼこや魚肉ソーセージ、ツナ缶など、生臭くないものです。
そして、私は食べることだけでなく、魚介類を見るのも触るのも大嫌いで、それが家の中にあることすら本当は嫌なのですが、家族は食べるので我慢して煮魚や焼き魚料理を作っています。
まだ自分で買ってきて調理するものはなんとかなるのですが、父の友人が釣った魚を持ってくることがたまにあります。
私はその瞬間、大げさに思われるかもしれませんが、嫌すぎて死にたくなります。
なんでこんな目に合わなきゃいけないのだろうと、泣きたくなるのです。
でも、父は自分は好きだからと、いつもそれを受け入れるのです。
そして、嫌な顔をしている私に対し、そうやってグズグズ言いやがって、というような事を言ってきます。
父は普通に会話が出来る人ではありません。
嫌だと伝えた所で、わかってくれる人でもありません。
どうやったって、逃れられないのです。
父の友人も、私が魚介類嫌いなことは知っています。
なのに、自分は釣るだけ釣って、自宅には奥さんがうるさいからと持って帰らないで、私の
家に置いて行くのです。
食べないなら釣るな、海に放してこい!といつも叫びたくなりますし、この人さえいなければとまで思ってしまいます。
この前も、自分が死ぬか、相手を殺すかしかないんだってまで思ってしまいました。
父に嫌だという気持ちを伝えることは絶対にできません。
伝えたところで、怒鳴られて終わりです。
だから、嫌でも嫌で死にたくなりながらも、最後はちゃんと受け入れてます。
受け入れるしかないからですが…
長くなってしまいましたが、
死にたくなるほど嫌いなものがあって、でも、どうやっても逃げ道がない時、どう向き合えばいいのでしょうか。
こんなことで、泣いたり死にたくなるなるなんて普通じゃないし、おかしいんだと思います。
でも、嫌いなものを嫌いと言うことも許されないのは辛いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
魚の気持ちになって考えてみました
はっきりと意思表示をされた文章。けっこう面白かったです。本当に魚が嫌いなんですね。私は思いました。魚で死にたくなるほど嫌いと感じるのであれば、あなたに害を及ぼす人に対しては、魚をはるかに超えた嫌悪を感じるのでしょう。文面にも書いてありますね。「自分が死ぬか、相手を殺すかしかないんだってまで思ってしまいました」と。これは、感情的になり過ぎかと思われます。
我々が修行中、食事をするとき、「食事作法」というのがあり、いろいろなお経をお唱えします。食事が平等に配されていること。祈願。施主の功徳に感謝する言葉。仏様への感謝。般若心経。食を受ける準備、受ける言葉。諸尊に食を少し分ける所作、鬼神への供養、体の中の虫に食を与える言葉、そして観法があります。その他もう少しお唱えして、やっと食事にありつけます。
その観法の中に、「この食物が食膳に上がるまで、農家、漁師等の生産者をはじめ、運搬、加工、販売、購入、調理してくれた人まで色々な人々の手間がかかっていることに思いを巡らし、どのようにして目の前に来たのかを思え。」というような意味の言葉があります。あなたの場合、父親の友達が釣ってきたのを、その人が自分の家に持ち帰るとその家の奥さんが怒るからあなたの家に置いて行かれるという、とばっちりみたいな腑に落ちない状況がありますが、その魚が魚として生命を受け、生きるために水の恵み、エサとなる植物プランクトンや動物プランクトン、その他の魚等の恵み、等々、数えきれない恩の連鎖があり、その魚は立派に育っているのです。かけがえのない命が備わっていたわけです。そんな魚に対しては、生理的に受け付けないことも理解しますが、同じ生き物として認めてあげましょう。食べる食べないは別にしてです。
折角、食べられる側と食べる側になった縁です。敬意を払って調理してやってください。人生には、魚よりも、もっと死にたくなるほど嫌なことがたくさんあると思います。先ずは魚をきっちり丁寧に調理することで、それらの嫌なことにも対抗できる強さを身に付けてください。そうすれば、魚も本望だと思います。
※上記の食事作法は真言宗の例であります。
仏の道は殺生禁止
思いきって言うしかないですよ。それが言えるなら相談してないって?そうかもしれませんが、きっぱり魚はダメだと言いましょう。
ここに相談されたのですから、一ついいことを教えましょう。
お坊さんが、魚を殺してはダメだと言ってました。私は仏さまを信心してるので、これからはお坊さんの言う通り魚は殺しませんと。言ってみましょう。
父によく見えるところに仏壇を置くのもいいでしょう。
さすがに仏壇の前に魚を置いていけないのではないでしょうか。
それがわからないなら、困ったものですね。仏さまを仏壇から出して魚を置くところに置いておきましょう。それでもするなら、親子の縁を切りましょう。
殺してと思うほど嫌っているなら、殺さないで済むならこれぐらいのことはしてみましょう。殺生はいけません。魚を殺すのもダメですが、まして親を殺すなんて、できないでしょう。
質問者からのお礼
御回答ありがとうございます。
まず、自分の気持ちや思いを否定されなかった事に驚きつつも、嬉しかったです。
親からは、色々なことを大なり小なり否定されて生きてきたので、こんな風にお話を聞いてもらえたことが何だかホッとした気持ちになりました。
柴谷宗叔さま
父に伝える…すごくハードルが高いですね…
父は自分が絶対正しいと思っている人です。
そんな父に、例えお坊さんの言葉でも伝わるか…
そして、父が嫌うネットという場所で私が助けを求めたことを知ったら、間違いなく怒鳴る事が目に見えるのです。
悪いことをした訳でもないのに、怒鳴られるのは少しでも避けたいです。
でも、『殺生はいけません。』という言葉は胸にきました。
一時的な感情であり、本当に殺したいと思っている訳ではありませんが、そういう言葉を発したり思うだけでも、なんだか強い力を持っているような気がしました。
これからは、少し冷静になれるよう気を付けたいと思います。
そして、今は事情がありすぐに家を出ることは出来ないですが、人を憎むよりも家を離れ距離を置く方が心に良そうですね。
御回答、ありがとうございました。
卓阿さま
ずっと心の中で抱えていた思いを書いたらこのような文章になってしまいました。
でも、まさか面白かったという言葉をいただけると思わなかったので、少し驚きました。
そうですね、本当に魚が嫌いです。
魚というよりも、貝類や海藻…海の食べ物が嫌いなのです。
幼い頃から匂いが苦手で、決定的になったのは、嫌がったししゃもを母に口に詰め込まれたことです。
でも、確かに例え嫌いが溢れたとしても、自分が死ぬか相手を殺すか、なんて感情的になりすぎですよね。
瞬間的でも、駄目なことだと、もう少し冷静になろうと、反省しました。
ご指摘ありがとうございます。
そして、魚の命についてのお話を読んで、父の友人から魚を貰う時にいつも
思うことを思い出しました。
食べないならキャッチ&リリースすればいいのに、と。
そうしたら、この魚はまだ海で泳げていただろうに、と。
命に対して、こんな風に嫌って嫌がるなんて、と自分が嫌になる時もあります。
ただ、かけがえのない命をいただくのなら、喜んで美味しく食べてくれる人の元へ行った方が幸せなのに、とも思います。
でも、思えば魚は悪くないんだなっていうことにも気付き、自分がいかに狭い世界の中で物を考えていたのだろうとも思いました。
沢山のことを教えて下さり、また指摘して下さったことに感謝します。
ありがとうございました。