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生きることの極端さについて回答受付中

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死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?

2025年6月26日 5:02

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理由や意味づけの世界より命が痛がるか安らぐかこそが真実

お疲れ様です。難しいご質問ですが大事な問いですね。
「死にたいと考えることは極端な発想で生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるか?」
それは、より良くいきたい、もっと安らかに生きたい、もっと問題のない人生でありたいと願うことであれば、建設的で前向きで誰も傷つけることが無いからではないでしょうか。お釈迦様や祖師たちだって死にたいと思う程に悩まれた。その中で死に向かわず確かな手ごたえのある生き方を見出された。それが救いの方向、光ある方向に向かって心をゆっくりと動かして進めることなのです。人や自分を傷つけることは救いとは真逆の「痛い」「哀しい」ことだからです。

人がこの世で存在をしているということは、人間の考える理由では説明しきれないものが沢山ありますよね。BEING
たとえば、あなたがアナウンサーだったとします。
しかもオリンピックで世界一を決めるみんなが注目する試合だったとしましょう。
そこで、あなたは限られた言葉で表現しなければならない。
目の見えない方にも説明だけで分かるような解説をしなければならない。
ところが、言葉というものは今のリアルタイムの現実を上手に説明しようとしても、いくつかの側面しか説明し得ないものでしょう。
事実というものは言葉以上におしゃべり。言葉以上に物申すものなのです。
私たちが言葉で説明しようとしても足りないでしょう。
極端であるということもそういうことです。
表現ですから、言葉の説明にとらわれてしまうと概念・考えの上での理屈でしばられてしまう。考えるならば建設的に考えればいい答えは出るものでしょうが、考えのための考えというものは論破の為の論破のようなもの。揚げ足取りの様になってしまい、本当に人を心豊かな救いの方向へと導くものとはいえない。
結果、人が考えの中で考えツールで苦しむ。用い方が違う。
言葉や考えるというアクションは人が豊かに、幸せになるためにこそ用いられるもの。
生きるということも、死ぬために生まれてきたと言えましょうか。そんな悲しい言葉で一側面的にネガティブに表現すべきものではありませんよね。
希望的な側面。楽しい面。うれしかったこと。美しいこと。きれいなもの。カッコいいもの。やさしいこと。暖かい面、穏やかな側面、いろいろ良い面を見い出そう世界はあなたを育てて照らす色んなの側面を持つミラーボールです。

2025年6月26日 13:32
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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ご相談くださり、ありがとうございます。

「死にたいと思うのは極端だ」と言われる一方で、「生きたいと思うのは当たり前だ」とされるこの不均衡さに、あなたは違和感を覚えたのですね。その感覚は、とても正直で、鋭く、本質を突いたものだと思います。

まず、“極端”という言葉は、とても主観的なものです。誰かの常識や社会の多数派が「そうじゃない方が普通」と感じたとき、人はそれを「極端だ」と呼びます。けれど、それは本当に“あなたの心”を見て言われている言葉でしょうか。多くの場合、「死にたい」と思うことを“極端”と片づけるのは、その苦しさを受け止める準備のない人が、自分を守るために使う言葉です。

本当は、「生きたい」も「死にたい」も、どちらも人間のなかに自然に生まれる、正直な心の反応です。仏教では、「この世は苦しみに満ちている(一切皆苦)」と説かれます。だからこそ、「こんな世界で生きるのはつらい」と思うのは、まったくおかしいことではないのです。

むしろ、「生きたい」と願うことのほうが、よほど不思議なのかもしれません。

それでも人が生きようとするのは、誰かとのつながりに温もりを見出したり、小さな幸せや希望に触れたり、自分の存在が「無意味じゃない」と感じられたり、そんな一瞬一瞬に、「ああ、もう少しだけ生きてみようかな」と思えるからじゃないかと思います。

「死にたい」は、あなたが“今”に耐えられないという、SOSの表現です。それは「こんなふうにしか生きられないなら、もう苦しい」と叫ぶ、いまを変えたいという願いの裏返しでないかと思います。

だから、「死にたい」と感じるその奥には、
「もっと楽になりたい」、「本当は大切にされたい」、「今のままじゃ、いやだ」

という、切実な願いがきっとあるはずだと思います。

「生きることは正しくて、死にたいと思うのは間違っている」そういう単純な話ではありません。どちらの感情も、本当は“心から湧いてくる自然な反応”です。それに極端というラベルを貼るのではなく、「あなたがいま、どんなふうに在りたいのか」を、ゆっくり見つめることの方がずっと大切だと思います。

どうか、どちらかを“正当化”しようとしすぎないでください。どちらもあなたの大事な声です。あなたの問いは、あなたの命と、まっすぐ向き合っている証です。その尊さを、どうか忘れないでください。

2025年6月26日 9:53
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おきもち

広島の山あいで、今日も「なんまんだぶつ」とつぶやいています。 浄土真宗本願寺派の僧侶、ケンコウと申します。 日々の中には、言葉にならない思いや、誰にも言えないもやもやがあるものです。 そんな時こそ、仏さまの教えが、ふっと心に灯りをともしてくれることがあります。 この「はすのは」では、あなたの声に耳を傾けながら、一緒に“いま”を見つめ直す時間をつくっていきたいと思っています。 堅苦しくなく、あたたかく、時にゆるく。 どうぞ、あなたのお話、聞かせてくださいね。

生きたい生き物の子孫が増えるから

生物の進化を考えてみると、生きたくないと思う生物は絶滅しやすいはずなので、結果的に今地球に生息している私達は「生きていたい派」の子孫であり、生きていたい個体が多数派であるのは仕方ないと思います。 
ただ、仏教では生への執着もまた煩悩だと考えます。
煩悩とは、悩み苦しみストレスの原因になる心のことです。
浄土宗を開いた法然上人は、「生きていれば念仏の功徳が積もるし、死ねば極楽浄土に往生できるので、生死ともにわずらいなし」(生きても死んでもどちらでも幸せ)と語られました。
そのような境地になれれば、死ぬまで生きれば良いだけさと、お気楽極楽な日々になれるかもしれませんね。
なお、自殺者の9割は「うつ」等を患っているという専門家がいます。
希死念慮が何日も続く場合はメンタルヘルス不調(脳・神経が体調不良)の可能性もありますので、医療機関に相談しても良いでしょうね。

2025年6月26日 12:27
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

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