生きることの極端さについて回答受付中
死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?
単位制の高校3年生、両親と妹と暮らしています。不登校の期間があり、高校は留年して四年目です。幼少期から誤解されたり、上手く行かないことが多くありました。中学三年生で発達障害と診断されています。今はバイトをしていますが、話を聞いていないとか、責任感をもってやってほしいなどと言われてしまいます。今年度は高校の単位をとり、卒業後の進路を決める必要があるのですが、自分がどうしたら良いのかわかりません。哲学や心理学に興味があるのですが、何をして生きていけば良いのか、本当にわかりません。漠然とした相談で申し訳ありませんが、アドバイス頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。
有能に、せめて平凡になりたい
お坊さんからの回答 3件
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理由や意味づけの世界より命が痛がるか安らぐかこそが真実
お疲れ様です。難しいご質問ですが大事な問いですね。
「死にたいと考えることは極端な発想で生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるか?」
それは、より良くいきたい、もっと安らかに生きたい、もっと問題のない人生でありたいと願うことであれば、建設的で前向きで誰も傷つけることが無いからではないでしょうか。お釈迦様や祖師たちだって死にたいと思う程に悩まれた。その中で死に向かわず確かな手ごたえのある生き方を見出された。それが救いの方向、光ある方向に向かって心をゆっくりと動かして進めることなのです。人や自分を傷つけることは救いとは真逆の「痛い」「哀しい」ことだからです。
人がこの世で存在をしているということは、人間の考える理由では説明しきれないものが沢山ありますよね。BEING
たとえば、あなたがアナウンサーだったとします。
しかもオリンピックで世界一を決めるみんなが注目する試合だったとしましょう。
そこで、あなたは限られた言葉で表現しなければならない。
目の見えない方にも説明だけで分かるような解説をしなければならない。
ところが、言葉というものは今のリアルタイムの現実を上手に説明しようとしても、いくつかの側面しか説明し得ないものでしょう。
事実というものは言葉以上におしゃべり。言葉以上に物申すものなのです。
私たちが言葉で説明しようとしても足りないでしょう。
極端であるということもそういうことです。
表現ですから、言葉の説明にとらわれてしまうと概念・考えの上での理屈でしばられてしまう。考えるならば建設的に考えればいい答えは出るものでしょうが、考えのための考えというものは論破の為の論破のようなもの。揚げ足取りの様になってしまい、本当に人を心豊かな救いの方向へと導くものとはいえない。
結果、人が考えの中で考えツールで苦しむ。用い方が違う。
言葉や考えるというアクションは人が豊かに、幸せになるためにこそ用いられるもの。
生きるということも、死ぬために生まれてきたと言えましょうか。そんな悲しい言葉で一側面的にネガティブに表現すべきものではありませんよね。
希望的な側面。楽しい面。うれしかったこと。美しいこと。きれいなもの。カッコいいもの。やさしいこと。暖かい面、穏やかな側面、いろいろ良い面を見い出そう世界はあなたを育てて照らす色んなの側面を持つミラーボールです。
ご相談くださり、ありがとうございます。
「死にたいと思うのは極端だ」と言われる一方で、「生きたいと思うのは当たり前だ」とされるこの不均衡さに、あなたは違和感を覚えたのですね。その感覚は、とても正直で、鋭く、本質を突いたものだと思います。
まず、“極端”という言葉は、とても主観的なものです。誰かの常識や社会の多数派が「そうじゃない方が普通」と感じたとき、人はそれを「極端だ」と呼びます。けれど、それは本当に“あなたの心”を見て言われている言葉でしょうか。多くの場合、「死にたい」と思うことを“極端”と片づけるのは、その苦しさを受け止める準備のない人が、自分を守るために使う言葉です。
本当は、「生きたい」も「死にたい」も、どちらも人間のなかに自然に生まれる、正直な心の反応です。仏教では、「この世は苦しみに満ちている(一切皆苦)」と説かれます。だからこそ、「こんな世界で生きるのはつらい」と思うのは、まったくおかしいことではないのです。
むしろ、「生きたい」と願うことのほうが、よほど不思議なのかもしれません。
それでも人が生きようとするのは、誰かとのつながりに温もりを見出したり、小さな幸せや希望に触れたり、自分の存在が「無意味じゃない」と感じられたり、そんな一瞬一瞬に、「ああ、もう少しだけ生きてみようかな」と思えるからじゃないかと思います。
「死にたい」は、あなたが“今”に耐えられないという、SOSの表現です。それは「こんなふうにしか生きられないなら、もう苦しい」と叫ぶ、いまを変えたいという願いの裏返しでないかと思います。
だから、「死にたい」と感じるその奥には、
「もっと楽になりたい」、「本当は大切にされたい」、「今のままじゃ、いやだ」
という、切実な願いがきっとあるはずだと思います。
「生きることは正しくて、死にたいと思うのは間違っている」そういう単純な話ではありません。どちらの感情も、本当は“心から湧いてくる自然な反応”です。それに極端というラベルを貼るのではなく、「あなたがいま、どんなふうに在りたいのか」を、ゆっくり見つめることの方がずっと大切だと思います。
どうか、どちらかを“正当化”しようとしすぎないでください。どちらもあなたの大事な声です。あなたの問いは、あなたの命と、まっすぐ向き合っている証です。その尊さを、どうか忘れないでください。
生きたい生き物の子孫が増えるから
生物の進化を考えてみると、生きたくないと思う生物は絶滅しやすいはずなので、結果的に今地球に生息している私達は「生きていたい派」の子孫であり、生きていたい個体が多数派であるのは仕方ないと思います。
ただ、仏教では生への執着もまた煩悩だと考えます。
煩悩とは、悩み苦しみストレスの原因になる心のことです。
浄土宗を開いた法然上人は、「生きていれば念仏の功徳が積もるし、死ねば極楽浄土に往生できるので、生死ともにわずらいなし」(生きても死んでもどちらでも幸せ)と語られました。
そのような境地になれれば、死ぬまで生きれば良いだけさと、お気楽極楽な日々になれるかもしれませんね。
なお、自殺者の9割は「うつ」等を患っているという専門家がいます。
希死念慮が何日も続く場合はメンタルヘルス不調(脳・神経が体調不良)の可能性もありますので、医療機関に相談しても良いでしょうね。