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父への気持ちをどう整理するべきでしょうか

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有り難し有り難し 4

結婚式を来年に控え、
父への気持ちをどのように整理するか、
そして、父を式に呼ぶべきか、悩んでいます。

私の両親は、私が小学校6年生の頃に離婚しました。
理由は母に対しての父の暴力と、ギャンブルです。

一番最初の暴力がいつからなのかはわかりませんが、
少なくとも私が生まれる前からあったようです。
母は「妊娠しているお腹を蹴られそうになった」と言っていました。

暴力の理由は様々ですが、
・ギャンブルに負けたのに母が金を渡さないこと
・金を渡さないことで暴力を振るわれることを恐れた母が借金をしたこと
・母が父に口答えをしたこと
など、身勝手な理由ばかりです。
私も2回ほど、父に暴力を受けたことがあります。

そんな最低な父ですが、私はどうも父のことが嫌いになりきれないのです。
私や兄が小さな頃は、よく遊びに連れていってくれました。
母が出かけることを面倒がる時(父と一緒にいたくなかったのだと思います)も、一人で遊びに連れていってくれました。
ほぼ毎週末です。
今思えば甘やかしすぎですが、私が欲しいと言ったおもちゃもすぐに買い与えてくれました。
私や兄へは、愛情があったのだと感じます。
ギャンブラーでしたが、職を転々と…というわけではありませんでしたし。

それを差し引いても最低には変わりないと、客観的には思います。
それでも、どうしても嫌いになりきれないのです。

暴力を許すわけではありません。
今でも、両親が離婚に至るきっかけとなったある日のことを思い出すと、涙が止まらなくなり、
父がまるで人の心を持たない鬼のように思えてきます。
許せません。でも嫌いにはなれません。
この矛盾した気持ちをどのように整理したら良いのでしょう。

長々としてしまい申し訳ありません。
何卒宜しくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

理解と誤解をうわまわる寛大な理解(慈悲)を

大切なことは、あなたがお父さんに来て「欲しい」かどうか。
人の道を踏み外してしまった父親であっても、娘に対する愛情がまるでない訳はでありません。
お父さんからすればあなたの結婚式に出席するのも愛、あえて欠席するのも愛です。
もちろん赦す必要はありません。
ですがお互いにもう大人ですから、理解だけは示すことです。
まずお母さんに暴力を振るう、あなたに手をあげる、背景や根底に何があったのか。
ひょっとすると当時、お父さんの勤務先での色々な抑圧やご実家との家庭不和があったかもしれませんし、お母さんに対してお父さんなりの不満もあったと思います。
非の打ちどころのない最低オヤジであるとすれば最初から結婚などしなかったでしょうから9:1か8:2くらいでお父さんにも言い分はあったカモ、かも?しれません(´・ω・`)。
いずれにしてもお父さんにとっても学びの場です。
自分の娘の結婚式ぐらいは出ても良いのではないでしょうか。
自分の産みの親である以上は100%嫌いににある事など不可能です。
今後も上手な距離感を保ちましょう。
お母さんは嫌がるでしょうが、あくまでもあなたの結婚式です。
あなたの意思で決めればよいことです。
人は誤解によって結婚して、理解によって離婚するケースもあり、
理解によって結婚して、誤解によって離婚する場合もあります。
どっちに転んでも、深い理解、慈悲。大いなる愛によって、赦すことができて復縁するケースもあります。
大きな視野を持てるようjに祈っています。
ご結婚おめでとうございます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

結婚式について、母は「あれでも父親なんだし、呼んであげたら?」と言っています。

私も呼ばないのは流石に可哀想かな、と思っていたのですが、
ふと、あれだけ酷いことをした父に、何の罰も受けさせずに(慰謝料・養育費ともに払っていません)
私の結婚式に招待するという、「いいとこ取り」をさせていいのか、という気持ちが湧いてきたのです。

でも、丹下様のアドバイスに則り、結婚式には招待しようと思います。
招待することで、父の心の中に、僅かでも「後悔」や「反省」の気持ちが浮かんだらいいなと願います。

ありがとうございました。

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