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精神不安定

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精神不安定で変なことばかり口走っていました。今考えると道徳心がなく情けなく人としてどうかと思うことがありました。皆忘れていると思いますが私は後悔しています。また口走ってしまうのじゃないか心配です。忘れたいけど忘れられません。どうしたら忘れて前にすすめますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

忘れるのではなく、向き合う

「道徳心がなく情けなく人としてどうかと思う」
「後悔しています」
「心配です」

この言葉を発しているところに、道徳心が芽生えているのではないかと思います。
変なことを言ったとしても、変なことを言ったと思わず
自分を振り返らず、後悔せず、自分は大丈夫だと思っている。それが不道徳なのではないかと思います。
あなたは今、自分の意識を超えたところで自分の不安定さと向き合おうしているのではないでしょうか。
それは忘れることによっては解決しないのではないかと思います。
どなたに何を口走ってしまったのかは分かりませんが、叶うのであればその方々に今のあなたの率直な気持ちを伝えたらいかがでしょうか。
もしそれが叶わないのであれば、もうそのようなことはしないと自分に誓いを立てましょう。
忘れるのではなく、向き合う、それが前に進むことだと私は思います。
そして、問の文章の中に自分と向き合う誠実性が感じ取れました。

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おきもち

もし思い出されたとしても大丈夫。

人間の記憶の現れ方をちょっと学んでみましょう。(^<^)
普段はケロリと忘れているのが誰でもの様子です。
それがふとしたことで思い出されてくる、浮かんでくるのですよね。
それを一方から見た時に、忘れずに覚えている、というのです。
つまり、思い出した時以外は忘れているということです。
では、どうすればいいのか。
思い起こされる事、フラッシュバックはあっても起こってもいいのです。
私も過去の記憶やフラッシュバックはあります。
でも相手にしていないから、打ち上げ花火のように、その場っきり、その時っきりです。
おそらくあなたは、忘れたい記憶が沸いてきた時に!
「それを嫌がる観察者、判定人、裁判官がいるから問題」なだけです。
私には、そういう思いが出てきても、それを嫌がったり、良し悪しをつける判定人がいないのです。
だから過去の記憶が沸いて来ても全く問題にならないのです。
これを真似してやってみてください。
カッコよく言うと、湧き出る思いを、見送るのです。
その生滅を心静かに見届けるのです。
電車の列がやってきて、通り過ぎていくようにね。
そうすれば、その思いは自然に消えてしまう。
あなたが相手にしなければ、その思いはどこにも憑りつきようがない。
そうです。あなたが出てきた思いに憑りつくことをしなければ、ホラ、すべての思いは流れ去っていっているでしょう?毎回それを修行する事を忘れずに心がけてください。
まずは、3回。出てきた思いを相手にせずに、過ごしてください。
やがて、慣れてくれば、ああ、また湧いて来たな、くらいで相手にしなくなります。
これで安心どすえ。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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