知り合い以上になれない回答受付中
物心がついたときからずっと悩んできました。話を聞く、相手を見る、思いやりを持って接する、理解するなど丁寧に心がけてきたつもりですが、知り合い以上の関係を築いたことがありません。子供の頃に生まれのせいか村八分にあったからか(近所の大人たちからも無視されてきました。)、他の人ができることができてないような気がしてならないのです。こんな境遇に負けないと勉強もして努力してきたけど、年月が過ぎ環境が変わっても根本的に同じ問題で悩んでいるのです。(集まりとか行くと気がついたら、一人取り残されているなど)アドバイスを求めても感覚的で主観的すぎて私には理解できず、家族も私の悩みなんて理解できません。このままではいけないはずなのに、お手上げです。いったい何で自分はこうなってしまうのか分かりません。
もう疲れて何もしたくないです。怒りや悲しみでどうにかまってしまいそうなのを堪えるのに呼吸すら苦しいです。体調も良かったときなどありませんし、何も楽しくありません。何をしても効果がありませんでした。もうどうすればいいのでしょう。なんで私はこの世に人間として生まれてしまったのでしょう。他の人達が宇宙人や他の生き物に見えてしまうときすらあります。もう何もかも嫌です。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの言葉の一つひとつに、長年にわたる深い孤独と、誰にも届かなかった痛み、そしてそれでも懸命に生きようとしてきた強さがにじんでいます。ここまで抱えてこられた苦しみは、きっと想像を絶するものでしょう。よくここまで、耐えてこられましたね。
今、あなたの心は「なぜ自分だけがこうなのか」「どこがいけなかったのか」と繰り返し問い続けておられると思います。
けれど、それは、あなたが“悪い”から起きているのではありません。
人との関係というのは、本来ひとりではどうにもならないものです。
相手の心、環境、そして時の運さえも、すべてが関わって成り立ちます。
もしあなたが今まで、何度も関係を築こうと努力し、誠実に人に向き合ってこられたなら、それはもう、あなたの人間性が欠けていたからではないと断言できます。
むしろ「人として丁寧であろう」とするその姿勢は、世の中に必要とされている尊いあり方です。
仏教では、「苦しみがある」ということ自体が、この世界の真実であると説きます(四苦八苦)。
あなたが感じてこられた疎外感、人とつながれない痛み、理解されない哀しみは、まさにその一端です。
しかし、あなたがこれまでされてきた行いは・・
・人を見て、思いやりを持とうとしてきた
・努力して、学び続けてきた
・苦しい中でも、自分を失いたくないと踏みとどまってきた
それは、ほんとうに尊いことです。
それが「報われない」と感じることも多かったかもしれません。
でも、その生き方は、必ず誰かの命を照らします。
まだ出会っていない、あなたの本質を見てくれる誰かが、きっといます。
「どうすればいいのか」と問うあなたに、今すぐ完璧な答えは返せません。
けれど、ひとつお伝えしたいことがあります。
それは、「生きていてくれて、ありがとうございます」ということです。
そして、もしあなたが誰にも言えない気持ちを、少しでも言葉にできたなら、それは“前に進んでいる証”です。
あなたは、ひとりではありません。
この世界には、「一緒に苦しんできた人」が、必ずどこかにいます。
あなたの命は、それだけで、尊く、意味があります。