孤立するしかない?回答受付中
支援を受けている施設が末期状態になっているとわかりました。
施設の支援担当者からは、遠回しに「自立して、何でも1人で出来るようにしなさい」という対応を取られています。
新しい友人には早くも冷たい態度をとられ、旧友も疎遠に。
親も、年齢的にも病状的にも、頼り過ぎず私が支える側にならねばならない。
会社では色んな配慮をもらっているけど、これ以上助けてもらうのは我儘だと思うから、体が悲鳴を上げても我慢して黙って働く。
本音をさらけ出せるハスノハでも、「おきもち」を渡したいけど出来ない事情があり、しょっちゅう質問ばかりして申し訳ない。
結局孤立するしかないのでしょうか?
排除されて必然な存在みたいにばかり扱われて、さすがに疲れました。
後悔や未練や懺悔、も通り越して、魂ごと消えてしまいたいです。
お坊さんからの回答 1件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁起の法は生きています。
お辛いお気持ち、よく書いてくださいました。
まず、この場に質問を起こしてくださったこと、それ自体がもう十分な行動です。ここでは返礼も見返りもいりません。あなたが書いてくださったことに、しっかりと耳を傾けています。私たちがもう10年以上ここに関われているのは、この「非対称性」を受け止めているからですよ。
「支援の場が終わってしまう」「人との関係が離れていく」
そのような状況は、孤立ではなく、縁が形を変える途中の姿なのだと思います。どんな縁も、同じ形のまま続くわけではありません。壊れるように見えることも、新しいつながりが芽を出すための空間づくり。あなたの努力が足りなかったわけではなく、縁がいったん休んでいるだけです。また新しい施設と出会う、準備期間ではないでしょうか。
仏教では、縁起という仕組み(世界の捉え方)が「孤立の否定」そのものです。私たちは誰一人として、ほんとうには一人になれません。あなたがここに言葉を紡いだ時点で、もうすでに誰かとつながっています。そのつながりを「信じてみる」ことが、次の一歩のはじまりです。何なら、どこかのスーパーでも、店員さんに「お世話様」と声をかけてみて下さい。そのとき、「お金を払って物を持ち帰る人」が「働いている人を労う人」という縁に変わります。それは、相手の心を少し温めるかも知れません。
そして、もしまた心が沈む日があっても、どうかここに戻ってきてください。
同じ場所に、同じように応える人がいます。それだけでも、孤立ではありませんから。
質問者からのお礼
労ってくださり感謝です。