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不寛容な世間に対して生き難く感じる

回答数回答 2
有り難し有り難し 12

いつもお世話になっています、特定の回答が存在しない気もしていますが抱えている気持ちを吐き出したくて投稿させていただきます。

いじめの問題であったり、有名人の不祥事であったり何かしら悪い出来事が起きると私刑を行う人がかなりの数いて、それに対抗してと言わんばかりに法治国家なんだから云々…と反論したりするような光景を見る機会が日に日に多くなっているような気がします。

私自身は、いじめやら不祥事を肯定する気は全くありませんし、いじめなんて言葉は犯罪に置き換えた方がいいとも思ってます。一方で、私刑そのものも肯定するつもりは無いとも思っています。

さっき挙げた私刑を行う人々に、それを必要悪と擁護する人々とそれに対しての反論をする人々…自分にとっては正直似たり寄ったりでしかないと思っています。どちらにしても、自分の面倒を自分でみれてないか暇なのかのどれかなんだろうなと思ってます。

私刑を肯定する側も実際に加害者に直接危害を加えるか、または被害者の救済をしたりなんて話もないですし法治国家だから云々を言う人たちも、仮に被害者と同じ目に遭ったら掌を返すんだろうなとしか思えません。

というのも、死刑制度廃止派の弁護士がいてその弁護士の家族が殺人の被害者になった際に死刑制度賛成に回った例があるので人なんてその程度だと自分は思ったからです。

どれだけそれらしい事を正しいように言っても、彼らは結局口だけでしかない。中身の入ってない樽のような物だとしか思えませんがそれを自覚している人はおそらくいないんだろうなと考えています。

一方で、自分はそんな人達に対して持っている感情も結局見下しているだけなんだろうなとも思います。そんなに言い争える体力があるなら行動すればいい、正しいかどうかはさておき財務省で解体デモをしていた人たちの方がもう少しはマシだと思いました。

自分なりに、他人に対して少しは寛容になってみたいとも思ってはいますが、世間の流れは逆に感じていっそ暴走するところまで暴走してしまえばいいとさえ思いました。そうすれば、少しくらいはわかるんじゃないか、と…

長くなってしまって申し訳ありません、SNSや動画サイトも見るものは絞ろうと思いましたが気になってつい見てしまう自分が嫌いなだけなのかもしれません。何となく生きにくさを感じていたのは事実ではありますが…

2026年1月22日 20:36
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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたの抱えている感情は、とても繊細で、かつ現代の空気を鋭く捉えているものだと思います。正義を語る人々がどこか薄っぺらく見えてしまい、それを見て冷笑的になる自分にも嫌気がさす、その矛盾に苦しんでいるのではと感じています。

たしかに、ネット上で飛び交う正義や怒りの多くは、個人のストレスのはけ口のようにも見えます。そしてその裏には「自分は正しい側に立ちたい」「悪とされるものを叩いて安心したい」という心の動きがあることも否定できません。

けれどそれは、ある意味で人間らしい反応でもあります。私たちは、不安や恐れを感じるときこそ「正しさ」という拠り所を求めたくなるものだからです。

あなた様の視点には、他人を冷静に観察する力と、同時に「そんな自分もまた、誰かを見下すことでバランスを取っているのでは」と自己を省みる誠実さがあります。その自覚は、いま多くの人が見失っているものだと思います。だからこそ、あなたの違和感や怒りは決して無駄ではなく、大切な現代社会の問題点を洗い出されていると思います。

ただ、その感性が過剰に疲弊してしまうと、「いっそ暴走すればいい」という思考に向かってしまうこともあるでしょう。それは、心が限界に近いサインでもあります。だからまず、外からのノイズを少し遠ざけることをおすすめします。SNSやニュースを“断つ”のではなく“絞る”。見る時間を決める。自分を守る選択を“行動”としてとることで、心の負荷は確実に減っていくのではないでしょうか。

そして、他人に寛容になりたいというあなたの願いも、同時に「自分自身を許したい」という心の声かもしれません。人を軽蔑する気持ちが湧くのは、どこかで「自分だって、本当はこうなりたくない」という反発でもあります。そのことに気づいているあなたは、すでに変化の途中にいらっしゃると思います。

完璧に寛容になる必要はありません。怒りや嫌悪を感じたら「今、自分は疲れてるんだな」と受け止めるだけでも十分じゃないでしょうか。

そしてときには、静かな場所で、何も評価せずにいられる時間を意識的につくること。現代では、それが“行動する寛容さ”の第一歩なのかもしれません。

ご自愛ください。

2026年1月23日 10:29
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有り難し
おきもち

広島の山あいで、今日も「なんまんだぶつ」とつぶやいています。 浄土真宗本願寺派の僧侶、ケンコウと申します。 日々の中には、言葉にならない思いや、誰にも言えないもやもやがあるものです。 そんな時こそ、仏さまの教えが、ふっと心に灯りをともしてくれることがあります。 この「はすのは」では、あなたの声に耳を傾けながら、一緒に“いま”を見つめ直す時間をつくっていきたいと思っています。 堅苦しくなく、あたたかく、時にゆるく。 どうぞ、あなたのお話、聞かせてくださいね。

悪行に惑わされることなく

拝読させて頂きました。
あなたがSNSや動画サイトを見て様々な方々が私刑として言動を発信なさっておられることにどうかと思っておられることを読ませて頂きました。あなたの詳細な心の中はわからないですが、あなたのその思いやお考えを受け止めさせて頂きます。
本来「私刑」とは法的な裁きではなく個人的に制裁を加えることを意味しています。それ自身で見ればそのような行為は違法です。何人も法での裁き以外に制裁を加えることは許されることではありません。
SNS上で様々な非難や誹謗中傷やヘイトクライムを発すること自体違法ですし、悪行です。
厳密に言えば誰一人として罪を犯していない人間などいないです。仮に生まれた子は今は全く罪は犯してはいないかもしれませんけれど、成長していく中では悪意や悪言や悪行をなすことは必ずあるものです。ですからどんな人であったとしても正しく他者を裁くことなどできないですからね。
本当の意味で裁くことできるのは仏様や神様や真理にもとづく法以外にはないでしょう。
私は仏教徒ですが、イエスキリストが言った言葉が思い起こされます。「罪を犯していないものがその者に石を投げられる」誰もその罪びとに石を投げることはできないのです。
ですからわが身のことを省みて本当に自分はどうなのか、自らの罪をしっかりと見つめることがとても大切だと思います。
SNSや動画で発せられる非難や誹謗中傷やヘイトスピーチは全て悪言です、悪行です、罪悪です。その様な悪行をしたものには必ずその報いが訪れます。
「天網恢恢疎にして漏らさず」ですね。匿名で発信したとしても必ず仏様や神様がしっかりとご覧になっておられます。

あなたがそのような悪行に惑わされることなく善き考えや言葉や行いを進んで行い、心清らかに毎日を生きることできます様に、切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌

2026年1月23日 14:18
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有り難し
おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

質問者からのお礼

>釋兼高さん
 回答ありがとうございます、明確な悪であればあるほどわかりやすく「自分が正しい側にいる」と思えますし一時的な安心を得やすくなるのかもしれませんね。本当に自分が解決しないといけないことから目をそらして、そっちを優先する人も思っているより多いのだろうと思います。
 こういった世の中の風潮に対して間違っていると思って、許せなくなる気持ちが強い時間があるなら自分も疲れてしまっていると…その通りなのでしょう。そこを受け止めるだけでも十分で、不寛容な自分がいてもそれを許してもいい…ということでしょうかね。詳しくご教授いただいてとてもありがたいばかりです。

>Kousyo Kuuyo Azumaさん
 回答ありがとうございます、「罪を犯していないものがその者に石を投げられる」はその通りだと考えていますし自分も見ず知らずの誰かに石を投げられるかと言われれば、否なのでしょう。問題なのは、現に言い争いをしている人たちにその問いかけをしても「自分は罪を犯していない」と信じ切って石を投げているのではないかというところとも思います。口ばかりなだけではなくて、中身さえもどうしようもない…自分も言い争いをしている人たちに対してはそうレッテル貼りをしたいだけなのかもしれませんが。
 SNSや動画サイトはやはり人類には少しばかり過ぎたものだとも思います。技術の進歩に対して、人間の精神の進歩は到底追い付いていない…と誰かが言っていたような記憶があります。上記のような人々の中にあるのはそれこそ、邪悪な炎と呼んだほうがいい代物なのかもしれません…自分も、例外ではないはずです。

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