正しいとは思うんだけど
ありがとうやごめんねをちゃんと言える人の方が良い。という話をする人が最近やたらと多い気がするんです。
この話をする前提としてなのですが、私はこの価値観は当然その通りだなと勿論思っています。
ただ時々なんでもかんでもその考え方一辺倒に相手に投げてばかりいる人を見かけて少し疑問をもつことが増えました。
感謝や謝罪を表すことは大事だと思います。でもその前提の上で派生した、相手の心情を汲みとろうとすることとか、そこまで想うことがより大事なのではないか、と思うのですが、案外そこまでを言う人が少なくて、なんならそのことを聞くと、「そこまでする相手でもない」と返ってきたりもします。
個人的に思ってることですが、そう返してくる人はもしかしたら、[感謝や謝罪は自分が最低限悪者にならないための形だけの言葉(?)]のようなものになってるのかなと考えてしまいます。
実際「ありがとうやごめんを言えないとダメだよ」って言ってる人に限ってそういう感謝や謝罪を安易に口にする癖に、次に口にする内容が明らかに最初の言葉とは反対の内容を発言してたり、なんかまるで意味を成してない様な気持ちになるんです。
感謝や謝罪をちゃんと言葉にすること
これは大事だし、否定する気は無いんですけど、心のどこかで(本当にそう思って言ってるのだろうか。色んな話をするための体のいい飾りに使われてるのではないか)と考えてしまいます。
もしかしたら私の思い過ごし、或いは普段からあまり口にしてないことの反発なのかもしれないのですが、少し前に知人と喋って以降ずっとそういう人にモヤモヤしていて、久しぶりにここに綴りました。
散文駄文の拙い文章なのですが、何かお言葉を、いただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
想いをちゃんと相手に伝わるように届けること。良き関係で。
なるほど、考え方一辺倒、そうですよね。
感謝や謝罪を言葉にしても(言葉にされても)、口先だけだと感じることもありますね。それは反対に不快にもなる。
相手に向けた言葉なのだから、相手に伝わって(届いて)こそ。相手がそのように受け取ってくれたのなら、ありがとうやごめんねという言葉でなくても、ちゃんと感謝や謝罪の想いは届いているでしょうね。
届かない中身の無い言葉であれば、ありがとうやごめんねの言葉を発していても、互いの距離は変わらないでしょうし、相手に対しても信用ならないと感じるでしょう。
大切なのは、その想いをちゃんと相手に伝わるように届けること。伝え方は、言葉でも態度でも関係性で通じ合っていけるのだろうと思います。
大切な人たちとは、そんな良き関係でいたいものですね。
あいさつは、する方もされる方も、気持ちが良いものです
こんにちは
ありがとうやごめんねをちゃんと言える方が良い事はわかっているが、心のこもっていない(と感じる)ありがとうやごめんねは、意味があるのか、というご質問です。
「普段からあまり口にしてないことの反発かもしれない」と自己分析もしておられます。
一緒に考えてみましょう。
私が小学生の時に「あいさつ運動」というのがあって、朝「あいさつ運動」の当番になると、朝早めに登校し校門前に立って、校門を通る人に、知っている人でも知らない人でも、「おはようございます」とあいさつをする、というものでした。
校門から入ってくるのはもちろん全員小学校の児童ですが、当時は全ての学年が1学年6クラスもあるマンモス校でしたので、ほとんど知らない人でした。あいさつ運動の当番は、通勤電車の中のような人間のかたまりに「オハヨーゴザイマース」とロボット的に声をかけていました。
今思えば、なんだか無駄な活動だったような気がしますが、朝に人に会ったら「おはようございます」と言う習慣はついたと思います。
さてこの「おはようございます」のあいさつは、もともと「お早くから、ご苦労様でございます」が省略されたものなのだそうですが、現代においてそのような気持ちで「おはようございます」を言う人はいないでしょう。朝、人に会って、何の会話もないと無視しているみたいで変な空気になるから「おはようございます」と声をかけるくらいな感じだと思います。
「ありがとう」も、本来は「有り難し」(めったにない、貴重だ)の意味ですが、現代において、そのような気持ちで「ありがとう」を言っているわけではないでしょう。何かをしてもらって無言では無視しているみたいになり相手に失礼と思い「ありがとう」を言うのだと思います。自分の体裁を保つというよりは、相手に対する配慮であるとも思います。「ごめんなさい」も同様でしょう。
あいさつは、する方もされる方も、気持ちが良いものです。相手に対する配慮でもあると思います。今まではあまり口にしていなかったかもしれませんが、是非口にしてみましょう。平坦なあいさつであってもその場の空気が和みます。
できるだけ一つ一つ丁寧に言葉にしていきたいですね
拝読させて頂きました。
あなたがその様に思うこともとてもわかるように感じます。あまり相手のことを考えずに安易にその様に言葉にするのはかえってよくないかもしれません。あなたのお考えを受け止めさせて頂きます。
その状況がどの様な経緯でそうなり自分や周りの方々がどうなっていったのか、それぞれの状況やお気持ちも踏まえたうえで自分の思いをしっかりと言葉にしていくことがとても大切だと思います。
ですからそこにいたる経緯をしっかりと踏まえた上で自分のことや相手への思いをしっかりと感謝や謝罪等の言葉にしていくことが大事ですよね。
ありがとう・どうもありがとうございます・サンキュウ・心より御礼申し上げます…等々
すみません・申し訳ありません・大変申し訳ございません・ごめんね・ごめんなさい…等々
それぞれの言葉はその状況や人と人との関係性によっても大きく変わってきます。その言葉の響き方一つとっても受け取る方の感情も大きく変わるでしょうからね。
いずれにせよ、煩雑に扱わずに相手にしっかりと向き合いながら自分の気持ちを誠意をもって一つ一つ丁寧に伝えていくことがこれからの人とのお付き合いでも大切ですからね。
あなたがこれからの未来に人とのご縁を大切になさり、お互いの思いを誠意をもっておつたえなさり一層大切なご縁を深めていかれ心から充実して毎日を生きることできます様に切に祈っております。至心合掌
「ありがとう」と「ごめんね」の重み
ご相談を拝見して、あなたのモヤモヤには大切な視点が含まれていると感じました。
言葉に出す「ありがとう」「ごめんね」は確かに礼儀であり、人間関係の潤滑油でもあります。けれど、それが“自分が悪者にならないための免罪符”になってしまえば、むしろ空虚な響きとなり、相手の心に響かないどころか、不信感すら招いてしまいます。
・言葉と心が一致すること
仏教では「身・口・意(しん・く・い)」―身体の行い、口から出る言葉、心の思い―この三つが調和することを大事にします。
「ありがとう」や「ごめんね」は口(言葉)にあたりますが、心(意)が伴わなければただの音にすぎません。あなたが感じている「形だけの言葉に思える」という感覚は、この調和が欠けていることを見抜いているからでしょう。
・相手の心を汲みとること
あなたが言うように、大切なのはその先にある「相手を思いやる心」です。
感謝や謝罪は、その思いが言葉という形をとって表れるもの。本来ならば「ごめんね」の背後には「あなたを傷つけてしまったことを思うと心が痛む」という気持ちが、「ありがとう」の背後には「あなたのおかげで私は支えられた」という温もりがあるはずです。
・モヤモヤとの付き合い方
人は誰しも未熟な部分を抱えており、言葉と心がちぐはぐになることもあります。あなたが感じた違和感を「相手は偽善者だ」と決めつける必要はなく、「ああ、この人は今、形だけの言葉にとどまっているんだな」と見つめておくこともできます。
それは同時に、「私は心からの言葉を大事にしたい」と自分の在り方を深める機会にもなります。
・結びに
「ありがとう」「ごめんね」は確かに大切な言葉です。けれど、それをただ繰り返すのではなく、心からの思いを添えていくことこそ、あなたが感じている本質です。
仏教的には、自分の心を整え、思いを深めて言葉に託すことが修行でもあります。どうか、他人の形だけの言葉に惑わされすぎず、自分自身が心と口を一致させた言葉を紡いでください。その姿は必ず、周囲にも静かに響いていくことでしょう。
合掌