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『とらわれない心』について教えてください。

回答数回答 3
有り難し有り難し 111

3年位前に、お坊様がTVで『とらわれない心が大事』と話されてるのを観てから、ずっと気になっていることがあります。

『とらわれない心』というのは、自分の欲や我を手放して、人と争わずおだやかに生きること、ではないかと私なりに受け止めました。

でもそれで、『私はこうしたい、こうなりたい』という目標があって、人と意見がちがったら、『私はこうしたい』と言うのは『とらわれている』のでしょうか?
意見がちがうときは自分か相手が譲るか、全く別の案を見つけるかだと思うのですが、いつも自分が譲るスタンスなら私はその人のいいなりになってしまいそうです。

自分の欲というのは望みであり、自分のあかしでもあると思います。
その欲=望みがなるべく汚いものではなく、きれいなものであるように願っていますが、他人から見たら『我』でしかないのでしょうか?

とらわれない=思い通りになるようコントロールしない、ということだとしたら、将来に期待はしないでただのぬけがらになってしまわないか疑問です。

私も未熟ながら、人にやさしくありたいと願っています。相手にとって安らげる存在になりたいです。自分と相手をともに大切にして、なおかつ『とらわれない』境地って私にはまだわかりません。

どうか、私に道を説いてくださいますよう、お願い申し上げます。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「とらわれるな!」という言葉に「とらわれるな!」

「とらわれるな!」は坊さんの常套句のようなモノです。('ω')
いまどき、そんな古めかしいベタな言葉を使う坊さんなんかいるんでしょうか?
アイ アム ア ボーイ This is a penぐらい使わないことばでっせ。
使っている坊さんがいたらワハハ出会ってみたいもんですわい。←前フリ
まぁ、いつまでもこだわっていなさんな、という程度にとらえて難しく考えんことです。
あなたは「とらわれちゃいけない」という事に、とらわれてちゃそれこそトラワレ。←今のあなたはまさにこれ。
では「とらわれない事にも、とらわれない、一切のトラワレから自由になった心とはなにか?」
逆に、ずっと、とらわれていたいと思っていても、
この心身というものの本来の働きは、医学的にも目も耳も、さっきまで見たり聞いていたことからトラワれていないことを知ることなのです。
鏡もレンズも、何を映しても残り物がないから、何でも映せるのでしょ?。
心身の本性も何を見ても映しても、残り物がないように出来ているのです。(本来無一物)
とらわれとは、執着の事。
①出会った事実に対して、
その後、目にも耳にも鼻にも口にも心身に何も残っていないのに、
②心の中で、それをいつまでも残しておくことをトラワレ、執着というのです。
厳密には、今思い起こしていることなので執着ですらない。
目や耳や鼻や舌や体の体験は、どんなことも、すべて、その時、その場限り、一生に一度っきりの経験です。
一度っきりの経験のしっぱなしであるから、トラワレがないのが人生の真実であり、だから一期一会、無常なのです。
つまり五感は何もトラワレが無いようにできているということです。
その証拠に何の残り物もないでしょう。それを自覚することが無碍、無著、無執着の心です。
アナタのしたいことは、成し遂げたらよいでしょう。
言葉にだまされてはいけません。
たとえば、自己満足という言葉があります。どんなにいいことでも一生懸命やっても自己満足という言葉で軽く片付けられれば、虚しいでしょう。
そんなものは言葉です、ラベルです。
トラワレるなという言葉に自分がとらわれては、せっかくの薬も使用法を誤って毒と為するに似たり。
だから、もう二度と「とらわれるな」なんて、ことばに…
「とわれるな!」(←あ、使ってるベタな奴がここにいたわ)('ω')

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有り難し
おきもち

とらわれるとはこういう事だと思います

昔、私が聞いた逸話があります。細かい部分は違うかもしれませんがご容赦ください。

昔。あるお寺に老僧と小坊主が住んでおりました。
老僧は煩悩を捨てよと教えていたそうです。

ある日、老僧と小坊主は寺を出て道をあるいていたそうです。
と、道に大きな水たまりがありその前で若いきれいな女性が渡るのを怖がって
水たまりの前で困っている姿に出会います。

小坊主は、着物が汚れる事に囚われずにその娘が水たまりの中を渡って行くように
きっと老僧が説教するであろうと確信していました。

しか〜し! 老僧がとった行動は小坊主の予想を裏切りました。

老僧は若くて綺麗な娘を背負って水たまりを渡ったのです。
娘は喜んで立ち去って行きました。

小坊主は悶々としておりました。
老僧のスケベ!いつも言っている煩悩に従ったに違いない。
なんてとんでもない坊さんだ…。
そんな思いを抱きながら悶々と老僧と道を歩いて行きました。

そして丸一日歩いて寺に戻ったとき、我慢が出来ずに
小坊主は老僧に問いただします。
『なんで女人を背負ったのですか?』
老僧は目を丸くしてから剛胆に笑って言いました。
『おお、今まですっかり忘れておったわ。それにしてもワシは困った人を助けるためにほんのの一瞬女人を背負ったが、しかし、お前は丸一日件の女人を背負い続けておったんだのぅごくろうさん』

お話しはここまでです
この小坊主が一日悶々としていた思考が『とらわれる』ということだと思うのです。

老僧の行動に疑問を持った小坊主はすぐに老僧に聞けば良かったのに
心で老僧を責めて悶々と思いを巡らせる…そんな行為をとらわれるって言うのだと思います。

つまりは、解決に至らない余分な思いをめぐらせる事だと私は思っています。

決し手自分の意見や思いを押し殺す事ではないと思います。

時々、今考えている事はもしかして『とらわれてる?』って思ってみるのは良いと思います。

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有り難し
おきもち

仏道に入門して40年が経ちました。 死ぬまで修行を続けるのがお坊さん...
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「空と縁起」

ちぃち様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「とらわれない境地」・・誠に難しいですよね。

「とらわれない、かたよらない、こだわらない」は、誠に私たちにおいての常套句ながら、真にその内実を理解しきれている者がどれだけいるのかと申しますと・・相当に怪しいと言わざるを得ません・・

はっきり申しますと、「とらわれない、かたよらない、こだわらない」と言われて、じゃあどうするのだとなっても、かなり難しいところがございます。

実は・・このhasunohaの拙回答内でも初期の頃で使ってしまっておりまして・・誠に猛省致しております。

そこで最近では、その代わりに仏教における「空と縁起」という考え方を基として回答をさせて頂くことが多くなっております。その中で最近では下記における拙論をご参照下さいませ。

「 死後について 」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1008841241.html

確かに永久永遠に捉え続けられる、とらわれられる、かたよれる、こだわれるような何か実体的なものがあるわけではないものの、因・縁によりて成り立っているモノ・コト、存在や事象は確かにあるのであります。

その因縁によっての存在や事象のありようの中で、善き因縁には善き結果があり、悪い因縁には、悪い結果があるという因果の理をしっかりと理解することで、しかるべくに善き因縁を集めていくことに努め励むことが大切なことになります。

例えば、人生における幸せや夢を追いかけて頑張ることや、仏教における悟りを目指すことや、修行に励むこと、智慧を育むこと、善徳・利他・慈悲行を実践することまでも、「とらわれるな」、「執着するな」というのは、誠に愚かなことであると存じております。

それらを否定してしまって、じゃあ一体何をするのだということになります。下手に幸せや夢、悟り・涅槃へと向けた善き因縁を集めていくことまでをも否定してしまっては、人生も、仏教も、そのものを根底から否定してしまうことになりかねませんし、何もかも否定してしまい虚無に陥りかねません。このことは十分に気を付けて注意する必要があるかと存じております。

制限字数の関係上ここまでにて失礼致します。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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質問者からのお礼

お言葉をありがとうございます。とても心が軽くなりました。『とらわれない』という言葉にがんじがらめに囚われていた自分に気づきました。心がほっとしすぎて、今すごく泣きたいです。私は何かにこだわったり、こうしたいって思うのがすごくいけないことだと思ってました。心の中に何も残さないってすごく素敵な言葉ですね。私は、言われて傷ついた言葉とか根に持つ方で、しばらく経ってからもその人の顔を見たら、その嫌な場面がじわじわ思い出されてつらくてたまらなかったです。私の心の中で憎悪が、ずっと消化不良してたんですね。私はこれから、過去の憎しみ、悲しみ、他人に対するおごりや、自分に課している重圧になる理想像などを少しずつ解放していきます。何だか自由な気持ちになってきました。 『とらわれない』の解釈を勘違いしていました。気づかせてくださって、本当にありがとうございます。安穏寺様のご発展を陰ながらお祈り申し上げます。

わかりやすい逸話をありがとうございます。とても面白くて、はっとしました。私は3年もの間、とらわれていたのですね。まるでお話の中の小坊主みたいです。気になったことやしたいことは、さっとしてしまった方が良いのですね。その方が、心残りがない生き方ができますね。もしかしたらお礼の順が前後してしまったかもしれませんが、悟東あすか様、素敵なお話をありがとうございました。ご活躍をお祈り申し上げます。

川口様 一緒に考えてくださって、ありがとうございます。仰る通り、私は『とらわれない心』の解釈を間違っていて、あやうく『虚無』に陥る所でした。『空と縁起』って深いお言葉ですね。『空』って、他のお二人が教えてくれた『とらわれない心』の解釈のようなことでしょうか。そして『縁起』は『因果応報』ですよね。壮大なイメージが湧きます。私と言う存在は宇宙にとって『空』の状態で、自分のまごころから出た善い行いは巡り巡って、善いものとなって返ってくるような・・・。その善のエネルギーの風が世界を動かしていてほしいです。私はまだ、邪悪な気持ちが心を行きかうときもあります。だけど、少しでも善の気持ちが心を多く占めてほしいと願って生きて行きます。新たな目標が出来る気付きをくださって、ありがとうございます。ささやかですが、六萬寺様のますますのご繁栄をお祈り申し上げます。

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