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法語や格言を自分の人生に取り入れる方法

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有り難し有り難し 15

今まで素敵な格言や著名な方の教訓を探すことが好きで行っておりました。

このような言葉を見ていると、ヤル気が湧いたり、助けになっておりました。

ただ、モチベーションや救いは一時的には持続するのですが、これらの言葉は、当然、自分が導き出したものではないでの、「理想」だという前提があり、自分の人生にその教えを定着させることができていないように思います。
(意識しているつもりですが・・・)

そこで、皆様はどのような方法で一般の方もこのような言葉を人生に活用できるようになるとお考えですか?

特に最近救われたのが、星雲大師の『星雲法語』にある「人生の最もたるもの(一)」です。
(宗派等は関係なく偶然出会ったものです)

第一、人生最大の敵は、自分自身である
第二、人生最大の病は、自分勝手である
第三、人生最大の悲哀は、無知無明である
第四、人生最大のあやまちは、邪見をもつことである
第五、人生最大の失敗は、驕慢になることである

上記5つの教訓を日々の生活に組み込めたら、家族・職場・友人等の私自身の悩みが解決するのですが、1~5を頭に入れて生活していても、分かっていながら見事に行動に移っておらず、苦しいです。

よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうぞ、あと一歩、前へお進みください

貴方様の悩みは「知っているとおりにできない」あるいは「こうありたいと思うとおりの自分になれない」と言い表せそうですね。これは貴方様お一人の悩みではなく、まじめに人生を考える人に共通の悩みです。なぜなら、私たちは根本的に頭で考えることと、話す内容と、取る行動がバラバラだからです。たとえば自分が就職できずに困っている時、就職したばかりの友人に会って本心から「よかったね」と言えるでしょうか?こうしたバラバラの状態を仏教では、身体と言葉と心のはたらきが三業(サンゴウ)になっていると言います。それに対して、三つがバラバラでなく人の道に合致している状態を三密(サンミツ)と言います。「密」とは凡夫にわかりにくい仏様の世界のことです。よい結果を招く善業(ゼンゴウ)となり、悪しき結果を招く悪業(アクゴウ)となってフラフラするのは、心に溜まっているものが「こうしよう」と思う心のはたらき以上に強い影響力で私たちを動かすからです。前の例をとってみると、表面的には「お祝いを言ってやりたい」と思うものの、内心では、あるいは無意識的に「こんちくしょう」という気持がはたらき、言葉は「おめでとう」なのに頬がこわばり、胸は激しく波立ちます。イメージとしては、表面の心が海面に出ている氷山の一角、内心や無意識の心が水面下にある巨大な氷山といったところでしょうか。では、巨大な心はどのようにしてつくられるのか?一つには生まれ持った過去世の因縁であり、もう一つにはこの世で積んだ因縁、つまり生き方です。生まれ持った部分は変えられませんが、日々、いかに生きているかによって自分の心は確実に変わってゆきます。そろそろ結論です。心の深く大きな部分までよきものとするためには、〝思う〟だけでは足りません。強く〝願い〟〝祈る〟ことによってよき色合いに染めて行かねばなりません。それを着実に進めるのが修行です。修行では人の道を歩みたいと願い、身体を仏様のお姿に合わせて合掌し、言葉は仏様の言葉を用いて経典を読み、心には仏様の世界をイメージします。健康な身体を求めるならば、散歩について書かれた本を読むだけでなく、実際に散歩せねばならないのと同じです。心が深い部分からよきはたらきをするためにはトレーニングが必要なのです。信頼できる寺院を探せば必ず、その方に合った無理のないトレーニング法を授かることでしょう。どうぞお励みください。合掌

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有り難し
おきもち

1000の知識よりも1の行

こんにちは。丹下格言こと、丹下覚元です。
敵は、自分自身である
自分勝手にならず
無知無明を離れ
邪見をもたず
驕慢になるな
これら5つを簡略したところつまり何を知ろ、どういう心であれと言っているのでしょうか。
あることをしてはいけない、するべきではない、あれもこれもするなという訳でもないはずです。
立派な格言も要約すれば「~であれ」「~をこころがけよ」「~な心であれ」の一言で済みます。
要点は、~~な心でいなさい、ということではないでしょうか?
知識というものはいくらためても一晩寝ればほとんど忘れます。
本で知り得た知識を本当に知り得た、ということは、それが行為になっていくということです。
日本にもマントラがありますね。
あせるな
怒るな
いばるな
くさるな
まけるな 頭文字をとって ❝あおいくま❞とか❝おいあくま❞とか 
仏教に限らず人間だったら心がけておくべき心の在り方を端的にしたものです。
分かりやすい形で何度も念ずる、ということも大切であると思います。
普賢菩薩というのは願行の菩薩です。
事を成し遂げようと思ったら願い、誓願が大切です。
誓いといっても自分の我欲の為ではありません。
あなたにはもっとこの世の中で立派に役立っていただきたいのです。
だから自分、自我を離れた誓い、誓願を立てればよいのです。
そうすればその時点で、自分を離れます。願いが、己我からオフィシャルになります。
それによって必ず、あなたの誓った願いが成就するはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。
遠藤様より教えて頂いたように、三業の状態です。
機会がある際に、無理のないトレーニング法というものの教えを乞いにお寺さんを訪れたいです。

丹下様の誓願を立てるも良いアドバイスを頂きありがとうございます。
少し調べてみます。

お時間を割いて頂き、また良きアドバスを頂き、ありがとうございました。
回答を頂けて心がスーッとしました。

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