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別れたことをいいことに

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有り難し有り難し 44

前にも少し相談させていただきました。不倫後のことです。
気持ちの整理がつかないものの、私なりに一生懸命忘れようと思いました。
彼は別れる時に、自分の趣味であるものを絶つと言ってました。自分が大事にしているものを絶ってでも私と縁を切りたいと。そうまでしてでも私と切りたいと。
事実、そのようにされました。
なので私も別れを徐々に受け入れつつありました。
ですが、最近SNSにてその趣味をまた始めたことを知りました。
ただ、私と縁を切って自分の趣味に没頭したかったのだと。
奥様にも自分の都合のいいように言って、彼だけ何事もなかったように幸せに暮らしておられます。
私は気持ちのぶつけようがありません。
奥様に手紙を書いて出そうと思います。
せっかく自分自身落ち着いてきたかと思ったのに、今になってまたこんなことされるなんて思ってもみませんでした。
悔しくてしかたありません。

私は奥様に連絡を取ってもいいでしょうか?

批判 ではなくアドバイスをお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

<一休禅師>

悔しさが滲み出てます。未練と自分に対する元彼の自分勝手の思いとあの時の自分の存在の意味。今となっては遊ばれ利用された気もする。考えれば考える程腹立たしく復讐さえもしたくなる。

今の心では貴女は罪過を犯し彼のお蔭で自分自身が潰れるでしょう。
もし変わりたいとの思いがあるならこの様な考えもあります!

<一休禅師>
二つの骸骨の絵を並べて描いて、その絵にこんな言葉を書いてあります。
「喧嘩しないで暮らそうじぅあないか、末は互いにこの姿。」
生きていた時には、親子喧嘩、夫婦喧嘩、兄弟喧嘩、嫁姑喧嘩、
友達、近所、など元気な時は喧嘩もしたが死んでしまえば皆同じ」

「気に要らぬ風もあろう柳かな」の生き方もありではないでしょうか。

一度深呼吸をしてこの言葉を考えて見てそれでも治まりがつかなかっら覚悟を決めて復讐も考え実行する事でしょう。例え苦しみ墜ちて行き周りを道ずれにしてしまう事に成っても。
「因果応報」善い行いをすれば善い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果がくだる。
決断するのは今一番苦しんでいる貴女次第です!

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目的を変えられた方がいいでしょう。

批判ではありません。(-ω-)
どこかしらに罪悪感と自分を守ろうとする心理が働いてしまうのでしょう。だから不倫は良くないってことです。批判されたくない気持ちが強く働いているからこそ他者の助言も批判に感じてしまうものです。
愛されたいと思う心自体が、非常にエゴ的な力が働いているのです。
そういう人間に心理があるということを知ってください。
今から申し上げることも批判ではありません。あなたは批判と受け取るかもしれませんが、自分の心の執着を剥がす為によく見て、聞いて、"効かせて"ください。
話を聞くということは、それを【薬としてわが心に❝効かせる❞ことが話を聞く方の努力というものです。
そうでなければ坊さんのアドバイスも悪口に聞こえてしまうものです。
あなたは彼を好きである自分に陶酔状態になっています。
そのくらい自分が大切なってしまっている状態なのです。
別に批判非難ではないのですよ?よーく冷静に自分の「自分を中心として物事を観てしまう癖」を見つめてください。全開も今回も、この話の一番の趣旨は人間の根強い「自己中心的エネルギー」をあなたから取り除くことなのです。
よーく、自分をみつめて、ああ、自分は❝自分のことしか頭にない❞のだ、ということを想ってください。
愛していたはずの相手が攻撃対象になっていることが何よりの証明です。
仮にダブル不倫をしている他の人たちであっても、もっと上手に相手を愛せている人がいるでしょう。
彼に執着している自分に酔っていると思ってください。
あなたの愛は相手を愛する愛ではなく、自己愛だったと反省をして見てください。だからこそ、あなたは自分を苦しめるエネルギーの最大の根源である「自分のことしか頭にない」「自分だけは正しい」という心を除去する必要があると思いませんか。
私はあなたのそれを取り除く医師です。それに反発して苦しみ続けたければ苦しむ他ありません。
それを選択しているのはあなたなのですから。そっちを選択せずに、そろそろ自分の幸せ、安らぎのために自分のエゴを捨てて、人に振り回されない様に生きることを選択したほうが賢明だよ、と言っているだけです。
本当にあなたが好きなら、あなたの心が楽になる方を選択した方が良いでしょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。気持ちの整理がようやくつきそうです。

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