仏教の宗教的な面について
初めて質問させて頂きます。
自分は母が在家ながら熱心な仏教徒で、浄土真宗の幼稚園だったこともあり、小さい頃から仏教に親しんできました。
今も悩み事のある時は、読経したり仏壇に手を合わせたりします。
将来は出家したいなとか密かに考えています。
ですがどうしても腑に落ちない点があります。
それは仏教の宗教的な面です。
お釈迦様の教えは哲学的に素晴らしいと思いますが、その不思議な力とか死後のこととかは本当なのかがよく分かりません。
不思議な体験などはしたことが無く、今まで健康で何も無く過ごせたのはお釈迦様のおかげだよと言われても、信仰の無い人でそのような人はたくさんいますし、いまいち実感が湧かないです。
僧侶の方々はそういった非科学的なものを感じることはあるのでしょうか?
また、修行をすれば分かるようになるのでしょうか?
回答頂ければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
哲学と宗教
みっつんさん、こんにちは。
浄土真宗大谷派の釈理薫と申します。
仏教の哲学的側面と宗教的側面とをどのように受け取ったらいいかとのことですね。
人生に役立つ哲学的側面だけでもいいのですが、世の中には言葉では説明できないことが多くあります。
親しい人との突然の別れをどのように受け取ったらいいのか。
正しいことをしてきたはずなのに、どうしてこのようなひどい目にあうのか。
どこまで思い通りになって、どこから諦めなければならないのか。
そもそもどうしてそうなったのか。
などなど、言葉にできないことを言葉で説明しようとしてもいろいろでてきます。
この言葉にできないことまで扱うことが宗教的側面だと思います。
お釈迦さまは、死後どうなるのか質問されても返事をしませんでした。『無記(むき)』
有るとも無いとも言わず、返事をしないことが答えなのです。
このように言葉にできないことにも向きあってきたのが、仏教が哲学ではなくて宗教であるゆえんなのかもしれません。
他の宗教ではそれを「〜である」と説明したりしますが、仏教は「分からない」として「不可称 不可説 不可思議」とそのままにしておく態度をとったりします。
その態度を決めることが宗教的なのです。
不思議な神秘的な体験をしたり、恍惚の状態になるのが宗教ではありません。
言葉にできないことにどういう態度でのぞむのか。
それが個々人の宗教的な側面ではないでしょうか。
『宗教』は「宗(むね)となる教え」として、仏教では「量(りょう・はかり)」といいます。
ものごとの判断をするさいの判断基準という意味です。
みっつんさんは、どのような判断基準のもとにどのような決断をし行動していくのでしょう。
その判断基準を、何千年と人びとの指針となってきたものに習うのが、修行なのかもしれません。
リアル仏教派 ファンタジー仏教派
神話の世界にも、象徴的な話が色々できてきますね。
昔の方々は、宗教が一番伝えんとする心の在り方、大事な精神を面白さを持たせて説いている部分があると感じています。
これは私個人の考えですが、死後の世界を体験した人は人類史上、誰一人としていませんし、立証できません。それが大前提です。筑波大学で死後の世界を研究する取り組みもありましたが、実証はできません。
死後の世界を作り出した人たちは生きている人たちです。
だからこそ、色々な思想が生まれました。それが世の中に蔓延している❝あの世思想❞です。
あなたが眼にした、耳にしたのも❝あの世思想 文化❞の一つであるということです。
「死んだことのある人で帰ってきた人はいない」
「生まれ変わるのは細胞レベルで瞬時刻々。心もいつも生まれ変わっている。」
「この世でベター、ベストな生き方をするために生まれた道徳的な教訓」
として捉えると、迷いは消えます。
死後の世界を語る人は、そういう人間の心理を知っていたり、死後の世界が立証が誰もできないことを知っているからこそ、いかようにでも説ける、ということを知っている人だと思います。
ですが、こういう理知的な話をしても死後の世界を信じる方は信じるのです。それでいいのです。
死というのは人間誰にとっても一大事なことです。
人間は死後の世界に対して、生きている間に①何らかの納得ができる理由付けをするか、②仏(覚者)の教えによって正しい認識をした時、私への恐怖は滅します。
お釈迦様は、科学的に対して宗教的なものの見方を勧められた方ではなく、非常に科学的で、根拠のあるものの見方を勧められた方でもあります。それが受け入れられない方には、方便としてそういう教えも残されたのです。
理系の人には理系仏教、文系の人には文系仏教があるということです(^<^)
様々な道
みっつんさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
面白いご質問だな、と思い、遅まきながらお答えさせて頂きます。
「仏教を学ぶ」という言葉があるとします。
これには、「仏教の歴史を学ぶ」ことや、「インドの古代仏教を学ぶ」こと、「中国での仏教の変遷」、「戒律についての研究」、「他の宗教との比較」などなど、無数のアプローチの仕方があります。
さらに「仏教に学ぶ」というスタンスもあります(仏教を、ではなく仏教に、です)。これは学問や知識としてではなく、自分の人生と仏教を、どう寄り添わせていくか、という立場です。しかもこの道にも、様々な道があります。
その様々な道が、宗派と呼ばれるものです。人間は一元的ではないからこそ、様々な宗派があるのだと思います。私は浄土真宗の僧侶で、自分自身は浄土真宗の教えでなければ救われないと思っています。この教えに出逢えて良かったと思っています。
でも、全ての人にそれが当てはまるとも思いません。坐禅によって救われる人、お題目によって気づきを得る人、様々です。
また、一見非科学的に見えるアプローチが性に合う、という人ももちろんいらっしゃるでしょう。理性で割り切れない問題には、「不可思議な力」が効力を発揮する場合もあると思います。
みっつんさんはすでに仏教に興味を抱いています。
色々なお寺を尋ね、本を読み、僧侶と接して頂ければ幸いです。その経験から、これだと思える道を歩める可能性が開かれています。
学びと実践
みっつん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
みっつん様の仏教とのご縁、誠に有り難しでございます。
これまでに仏教に関しましては、拙くにも初期・根本(テーラワーダ)仏教からチベット密教まで全般的な概観を幅広く学ばせて頂いており、更に少しずつではございますが実践と併せての学びも進めさせて頂いております。仏教は、もちろん宗教的な信仰を扱う側面もあるものの、これまでの拙私見として、実践思想哲学的な要素が強くあると実感致しております。
その中で、学び修したことを実際に実践(修行)も併せて慎重に修習を進めることで、心底から納得したこと、できたことを受け入れていくことが肝要であるのではないかと存じております。
もちろん、一応、仏説として、不可思議なこと、非科学的なこと、到底(今は)納得できないようなことであっても、お悟りを開かれた仏陀・如来様であれば、方便的なものとしてもそれらのことが可能であり、説明できることもあるにはあるでしょうが・・とにかく、十分に自分自身が納得していない、できていない以上は安易に受け入れずに判断保留、更に検証が必要なものとして慎重に扱っておくのが妥当ではないかと存じております。
また、下記各問いの拙回答も色々とご参照頂けましたらと存じます。
問い「なぜか一つに決められないんですが・・・・」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002969128.html
問い「宗派にとらわれない仏教思想の学び方について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002944760.html
問い「貴方が「この教えは現代に合わない」と思った事を教えて下さい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002902054.html
拙回答カテゴリー「各宗派の教えについて」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319881.html
是非、共にこれからも頑張って仏教を学び進めて、実践にも努めて参りましょう。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答ありがとうございました。
これまでの自分の宗教観は勝手なイメージにすぎなかったことに気付かされました。
ますます仏教に対しての興味が湧きました。
また疑問があれば質問させて頂きます。