hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

仏教の宗教的な面について

回答数回答 4
有り難し有り難し 41

初めて質問させて頂きます。

自分は母が在家ながら熱心な仏教徒で、浄土真宗の幼稚園だったこともあり、小さい頃から仏教に親しんできました。
今も悩み事のある時は、読経したり仏壇に手を合わせたりします。
将来は出家したいなとか密かに考えています。

ですがどうしても腑に落ちない点があります。
それは仏教の宗教的な面です。

お釈迦様の教えは哲学的に素晴らしいと思いますが、その不思議な力とか死後のこととかは本当なのかがよく分かりません。
不思議な体験などはしたことが無く、今まで健康で何も無く過ごせたのはお釈迦様のおかげだよと言われても、信仰の無い人でそのような人はたくさんいますし、いまいち実感が湧かないです。

僧侶の方々はそういった非科学的なものを感じることはあるのでしょうか?
また、修行をすれば分かるようになるのでしょうか?

回答頂ければ幸いです。

2014年10月14日 2:07

この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

哲学と宗教

みっつんさん、こんにちは。
浄土真宗大谷派の釈理薫と申します。

仏教の哲学的側面と宗教的側面とをどのように受け取ったらいいかとのことですね。

人生に役立つ哲学的側面だけでもいいのですが、世の中には言葉では説明できないことが多くあります。
親しい人との突然の別れをどのように受け取ったらいいのか。
正しいことをしてきたはずなのに、どうしてこのようなひどい目にあうのか。
どこまで思い通りになって、どこから諦めなければならないのか。
そもそもどうしてそうなったのか。
などなど、言葉にできないことを言葉で説明しようとしてもいろいろでてきます。
この言葉にできないことまで扱うことが宗教的側面だと思います。

お釈迦さまは、死後どうなるのか質問されても返事をしませんでした。『無記(むき)』
有るとも無いとも言わず、返事をしないことが答えなのです。

このように言葉にできないことにも向きあってきたのが、仏教が哲学ではなくて宗教であるゆえんなのかもしれません。

他の宗教ではそれを「〜である」と説明したりしますが、仏教は「分からない」として「不可称 不可説 不可思議」とそのままにしておく態度をとったりします。
その態度を決めることが宗教的なのです。

不思議な神秘的な体験をしたり、恍惚の状態になるのが宗教ではありません。
言葉にできないことにどういう態度でのぞむのか。
それが個々人の宗教的な側面ではないでしょうか。

『宗教』は「宗(むね)となる教え」として、仏教では「量(りょう・はかり)」といいます。
ものごとの判断をするさいの判断基準という意味です。
みっつんさんは、どのような判断基準のもとにどのような決断をし行動していくのでしょう。
その判断基準を、何千年と人びとの指針となってきたものに習うのが、修行なのかもしれません。

2014年10月14日 11:01
{{count}}
有り難し
おきもち

平松理薫(釈理薫)
真宗大谷派(東本願寺)僧侶 東京品川 日夜山正徳寺 住職 主な活動...

リアル仏教派 ファンタジー仏教派

神話の世界にも、象徴的な話が色々できてきますね。
昔の方々は、宗教が一番伝えんとする心の在り方、大事な精神を面白さを持たせて説いている部分があると感じています。
これは私個人の考えですが、死後の世界を体験した人は人類史上、誰一人としていませんし、立証できません。それが大前提です。筑波大学で死後の世界を研究する取り組みもありましたが、実証はできません。
死後の世界を作り出した人たちは生きている人たちです。
だからこそ、色々な思想が生まれました。それが世の中に蔓延している❝あの世思想❞です。
あなたが眼にした、耳にしたのも❝あの世思想 文化❞の一つであるということです。
「死んだことのある人で帰ってきた人はいない」
「生まれ変わるのは細胞レベルで瞬時刻々。心もいつも生まれ変わっている。」
「この世でベター、ベストな生き方をするために生まれた道徳的な教訓」
として捉えると、迷いは消えます。
死後の世界を語る人は、そういう人間の心理を知っていたり、死後の世界が立証が誰もできないことを知っているからこそ、いかようにでも説ける、ということを知っている人だと思います。
ですが、こういう理知的な話をしても死後の世界を信じる方は信じるのです。それでいいのです。
死というのは人間誰にとっても一大事なことです。
人間は死後の世界に対して、生きている間に①何らかの納得ができる理由付けをするか、②仏(覚者)の教えによって正しい認識をした時、私への恐怖は滅します。
お釈迦様は、科学的に対して宗教的なものの見方を勧められた方ではなく、非常に科学的で、根拠のあるものの見方を勧められた方でもあります。それが受け入れられない方には、方便としてそういう教えも残されたのです。
理系の人には理系仏教、文系の人には文系仏教があるということです(^

2014年10月20日 8:12
{{count}}
有り難し
おきもち

丹下覚元(たんげかくげん)
お悩み相談 ❝あなたの悩みという荷物をおろしてみませんか?❞ 「お寺で...

様々な道

みっつんさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。
面白いご質問だな、と思い、遅まきながらお答えさせて頂きます。

「仏教を学ぶ」という言葉があるとします。
これには、「仏教の歴史を学ぶ」ことや、「インドの古代仏教を学ぶ」こと、「中国での仏教の変遷」、「戒律についての研究」、「他の宗教との比較」などなど、無数のアプローチの仕方があります。

さらに「仏教に学ぶ」というスタンスもあります(仏教を、ではなく仏教に、です)。これは学問や知識としてではなく、自分の人生と仏教を、どう寄り添わせていくか、という立場です。しかもこの道にも、様々な道があります。

その様々な道が、宗派と呼ばれるものです。人間は一元的ではないからこそ、様々な宗派があるのだと思います。私は浄土真宗の僧侶で、自分自身は浄土真宗の教えでなければ救われないと思っています。この教えに出逢えて良かったと思っています。

でも、全ての人にそれが当てはまるとも思いません。坐禅によって救われる人、お題目によって気づきを得る人、様々です。
また、一見非科学的に見えるアプローチが性に合う、という人ももちろんいらっしゃるでしょう。理性で割り切れない問題には、「不可思議な力」が効力を発揮する場合もあると思います。

みっつんさんはすでに仏教に興味を抱いています。
色々なお寺を尋ね、本を読み、僧侶と接して頂ければ幸いです。その経験から、これだと思える道を歩める可能性が開かれています。

2014年10月22日 0:26
{{count}}
有り難し
おきもち

浦上 哲也
横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗...

学びと実践

みっつん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

みっつん様の仏教とのご縁、誠に有り難しでございます。

これまでに仏教に関しましては、拙くにも初期・根本(テーラワーダ)仏教からチベット密教まで全般的な概観を幅広く学ばせて頂いており、更に少しずつではございますが実践と併せての学びも進めさせて頂いております。仏教は、もちろん宗教的な信仰を扱う側面もあるものの、これまでの拙私見として、実践思想哲学的な要素が強くあると実感致しております。

その中で、学び修したことを実際に実践(修行)も併せて慎重に修習を進めることで、心底から納得したこと、できたことを受け入れていくことが肝要であるのではないかと存じております。

もちろん、一応、仏説として、不可思議なこと、非科学的なこと、到底(今は)納得できないようなことであっても、お悟りを開かれた仏陀・如来様であれば、方便的なものとしてもそれらのことが可能であり、説明できることもあるにはあるでしょうが・・とにかく、十分に自分自身が納得していない、できていない以上は安易に受け入れずに判断保留、更に検証が必要なものとして慎重に扱っておくのが妥当ではないかと存じております。

また、下記各問いの拙回答も色々とご参照頂けましたらと存じます。

問い「なぜか一つに決められないんですが・・・・」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002969128.html

問い「宗派にとらわれない仏教思想の学び方について」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002944760.html

問い「貴方が「この教えは現代に合わない」と思った事を教えて下さい」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/1002902054.html

拙回答カテゴリー「各宗派の教えについて」
http://blog.livedoor.jp/hasunoha_kawaguchi/archives/cat_319881.html

是非、共にこれからも頑張って仏教を学び進めて、実践にも努めて参りましょう。

川口英俊 合掌

2014年11月9日 8:56
{{count}}
有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。

これまでの自分の宗教観は勝手なイメージにすぎなかったことに気付かされました。
ますます仏教に対しての興味が湧きました。

また疑問があれば質問させて頂きます。

「宗教について」問答一覧

信心するしないは、幸せに関係しますか?

いつも、ありがとうございます。 時々、疑問に思う事を質問させて下さい。 私の母は、昔から凄い信心する人で、私が思うに母が若い時に死ぬような病を祈願してもらって助かったことから、信心するようになったのかもしれません。 私が小さい時、お地蔵さんにお参りなど一緒に連れて行ってました。お寺や神社、お地蔵さん、ほんとによく通ってました。 私達が無事に過ごせますように。とのお願いをしていました。よく聞きますが、自分が年をとって人の手を取らなくていいように…のお願いもしていました。 そして、現在は私に依存しきってます。どんな時も私にです。人の手を取らなくていい!なんて有り得ません。とにかく私は、母の依存に疲れてます。年取ったから仕方ないとは思ってますが、仕事も忙しく、家事もして実家のことまで…それに適応障害の弟の事まで。 信心して、あれ程祈ってたのに。なので私が思うに人の手を取るとかは、自分の心の持ち方で変わると思います。そんな母の幼稚さ?になんだか悲しくなったり… 母は今では全く信心の気持ちは無くなってます。なんで、あんなにお参りしたんだろう?何もならんかった。と言ってます。 それに比べて私の友達の家は全くの無信心です。お父さんが亡くなって初盆でも和尚さんも呼ばずにお経もあげてません。 けれど、お母さんは、いつも前向きで 一人暮らしですが楽しく生活していて、娘(私の友達)に依存する事なく自立しています。 生きていくうえで信心していれば幸せになる、無信心だとご先祖様からも応援してもらえない。 なんて事は、関係ないのでしょうか? それは私の小さい頃からの思い込みでしょうか? 母からの依存は年だから仕方ない、後何年生きるかも分からないから、色々不満を持たずに接して行こう!とは思う時もありますが、ほんとにほんとに疲れます。 体が不自由になった訳でもなく、歩く速度は遅くなりましたが何でもできるのに、ヘルパーさんの仕事に買い物を頼んでるのに、週1は必ず私が買い物に連れて行かなくてはいけない事、それを母は当たり前と思ってる事も…ほんとに疲れてます。 母が亡くなるまで、こんな事が続くのかと思うと何とも言えない気持ちになります。 そんな気持ちを母に言っても何とも思っていません。 こんな私に何かお言葉をお願いします。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

新興宗教の人に業が深いと言われたのですが

おはようございます。 業が深いと言う言葉を昔から聞くのですが、結婚前にしつこく新興宗教に勧誘してくる女性がいました。 私は生まれつき持病がありますが、薬を飲んでコントロール出来て普通に生活をしています。 ある日突然新興宗教の女性に(近所に住む方)会ってしまい、また勧誘されました。 私は仏教徒ですとお断りしていたら「あなたのお母さんは業が深い」と言われました。突然言われ意味を聞くと「あなたのお母さんは前世から悪い行いをしてきたからあなたに持病などがでるんだ。だからうちの宗教に入信すれば大丈夫」など普通他人に言わないであろうことを平気で言われました。 最初は腹も立ちましたが今は母親のことをそんなふうに平気で言われたことが悲しいです。そういう宗教の人なので気にしない様にと思っていますがやはり自分自身が病気をしているのに何故母親のことを言うのか… そして、この方には散々勧誘されつづけ、引っ越してからやっと勧誘が無くなりました。今は自宅や、お寺などでご先祖さまに手を合わせたりお寺でも感謝の気持ちと共に自分の家族をよろしくお願いしますなどお参りさせてもらっています。 そして肝心な仏教では「業が深い」から家族が病気になるや、苦労するといったことはありえますか?よく前世の行いなどで来世で苦労するとは昔から聞くのですが、そうなると病気をしている方は前世で悪い行いをしていることになりますよね…? 肝心な私の母は昔からも何も問題なく暮らしています。私の持病にも普通に前向きですが… そして勧誘してきていた女性の新興宗教はまず神社に行っては行けない、他の仏教や宗教は全て邪教であるのでダメ等など… 業が深いの本当の意味やお坊さん達の解釈はどうなのでしょうか?

有り難し有り難し 60
回答数回答 4

私の信仰について

今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。

有り難し有り難し 12
回答数回答 2

〇〇宗のお墓の前で、無宗教の人がお経を唱える意味は何ですか?

今や自分はともかく親が何を信仰しているかも分からない場合が多いと思います。そして特定の菩提寺を持たない場合において、祖父母の墓参りなどで直面する、お墓の前で唱える言葉の意味についてどう考えたらよいのか悩んでいます。 基本的には自分が信仰する宗派において、自分自身のために唱えるのは理解できるのですが、故人のために唱える場合は、どういう意味があるのでしょうか。 そもそも故人は自身の信仰によって成仏されていると思うのですが、それに対し後世に他人(親族です)が言葉を唱えることの仏教的な意味を知りたいです。 また、〇〇宗を信仰された祖父のお墓の前で、▲▲宗を信仰している(もしくは何も信仰していない)孫が唱える言葉は何が良いのでしょうか? 一般的には〇〇宗のお墓の前では、〇〇宗の言葉(例えば南無阿弥陀仏など)と教えられたのですが、よくよく考えていくと自分の信仰していない宗派の言葉を「形式的」にだけ唱えるという事になってしまい意味があるのかな、と思い始めました。 浄土宗などは念仏を唱えることに意義があるという点では、形式上であったとしてもある程度は理解できるのですが、浄土真宗やその他禅宗などにおいては意味があるようには思えないのです。 今まで深く考えず、親に教えられた通りに唱えていたのですが、勉強すればするほど分からなくなってきてしまいました。 迷える子羊をお救いください。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

関連する問答

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る