私を生きにくくしたのは誰なんでしょう?
同じようなことばかり書いていてすいません。
でも、どこにも吐き出せないのです。だから少しだけガス抜きさせてください。
わたしが悩むことはやはり仕事についてです。
自分の些細な失敗や先輩上司からの何気ない一言に苦しくなります。
「自分はなんでこんなことができないのだろう」
「こんな自分だから先輩上司たちから嫌われてしまうんだ」
と常々思ってしまいます。
両親は辛いならやめていい、まだ若いんだから大丈夫と慰めてくれるのですが、両親の期待に応えられないことが辛いのです。
でもふと気が付いたのですがなんでわたしは仕事を完璧にこなそうとするのか、なぜ誰からも嫌われないように取り繕うとするのか、なぜ両親の期待に応えようと必死なのか、なぜ自分を信じてあげられないのか。
わからないのです。
いつも生きていくうえで必要なものは私じゃない誰かが用意していて、その誰かの言いなりに生きていくのはとても楽で何も考えなくても過ごしてこれました。
でも社会人になって仕事場は学校じゃないと教えられ必要なものは自分で考えて答えを出さなければならなくなって、自分の答えが信じられなくて、1番正解に近い答えがほしくて誰かに聞くのに自分の考えた答えを言えといわれ、今まではちゃんと用意されていた誰かの答えを言えば許されたのに許されなくて、怖くなってしまったのです。
今まではこの生き方でいい子だね、えらいねと言われたのに、何でダメなんでしょう。
私を生んで育ててくれた両親がいけないのでしょうか。
だったら生んで育てたのだから両親が責任もって私のことを殺してほしい。
答えを用意して考えることを放棄するように、みんな平等などと嘘偽りを教えた学校がいけないのでしょうか。
だったらこんな考えを持つように教えたのだから責任もって国が私を殺してほしい。
でも本当は考えることをやめて誰かの言いなりに従ってきた私が悪いのです。
わたしみたいな屑が生きていて、私なんかより価値がある人が今この瞬間にも死にゆくことが理不尽でたまらないとも思います。
もしも神様がいるのなら私を殺して残った寿命を必要としている人にあげたいと願っています。
だから私を作った誰かに殺してほしいのです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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世間
『世間』というものはやっかいです。
人生の苦の大半をこの『世間』が作り出していると思います。
国が違えど、時代が違えど、どこかの秘境の民族の方でも『世間』はあります。
なぜ『世間』がやっかいかというと、
『世間』は知らず知らずのうちに、
そこからはみ出してはいけないというような思いを私たちに持たせてきます。
常識、エチケット、優劣、努力家であれ。なまけるな。
こんな思いを、道徳を、
『世間』は知らず知らず私たち1人1人に植えつけていきます。
すると、
非常識なこと、エチケットのないこと、みんなができるのにできないこと、努力しないといけないのにできないこと、なまけちゃうこと。
などが、とても悪いこと
と自分で思ったり、人に思われたりするようになるんですね。
サイズの合わない靴を履いたとき、
『この靴はわたしの足に合わない』とわかるのに
『この靴に合わないわたしの足がおかしい』と、こと『世間』のことになるとそんな当たり前さえもわからなくなるんですね。
仏教は『出世間』の教えです。
『世間から一歩距離を置いた立場から物事をみる』
という事です。
『世間』は『道徳』が大好きです。
「〇〇たるもの、〇〇であらねば」
みたいなんが大好きです。
でも「〇〇が〇〇であらねばならない」必要がどこにあるんですか?
あなたはあなた、誰がなんと言おうと、あなたはあなた。
生きていていいから生きています。
私たちは『世間』の中で生きていますから『世間を捨てろ』とは言いません。でも一歩距離を置きましょ。
『〇〇であらねば』という世間の枠組みをはずせば、もう少し気楽に自由に生きてゆけると思います。