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生きているのも辛い

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私は結婚して三年になりますが子供が居ません。一年前に流産しました。それ以来中々子供が出来なくて悩んでます。

旦那さんの両親から私達は結婚して三年で出来たのよとか28才には産んだのよとか言われてものすごくプレッシャーを感じます。

旦那さんも早く欲しいって言うしプレッシャーと焦りで毎日寝れずに悩んでます。悩みすぎて誰にも会いたくない外にも出たくない死にたいって毎日思うようになりました。

私はどうしたらいいのですか?私には相談出来る母親は居ません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうにもツライことでしょう

 「人間は大人になったら結婚して家庭を持ち、子供を持つ」…それが定めであり、人生の模範であるならば、貴女はこれからも悩み続けなくてはならないことでしょう。
 そもそも、結婚しなければ子供は産めないワケで(それすらも、そう決めたのは私達人間ですが…)、未婚のお方、離婚を経験されたお方からすれば、貴女は贅沢な悩みをお持ちなのかも知れません。 
 貴女が悩みから解放される方法は、一つに子供を授かるまで、どんな困難も引き受けることです。不妊治療をされている産科医院は数多くあるでしょうから、とにかく片っ端から病院を訪問し続けることです。その点では諦めない限り、貴女が懐妊される確率は決してゼロになることはありません。悩み落ち込むヒマはなくなります。体力も財力もとてつもなく消耗するかも知れませんが…。
 もう一つの方法は、貴女も気付いておられるように「子供を持たなきゃいけない強迫観念」から自らを解き放ってあげることです。それも大変だとお感じでしょうが、それは自分次第です。
 子を持つこと以外の他の道を見出し、求め、邁進することでその強迫観念から離れることが出来ます。
 尚、本当にいい加減なことを申して恐縮ながら、「とにかく可愛らしい存在」を欲しているのであれば、ペットの方がよほど勝れていると感じます。
 人間の赤ちゃんは、小さいうちはおもちゃみたいで可愛く楽しいのですが、実は成長するにつれ貴女や私と同じ「人間」になってしまうのです。それはそれは面倒で、お金掛かって、その割には親に文句ばかり言うようですよ…ヒドイですよね。

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授かりの目的を変えてみる

まず、そもそも自分の意志で妊娠できるものではないと思ってみるザマス。
反対に、望まない人も自分の意志とは別に授かっちゃった人も居るザマス。
俗にいう「出来ちゃった」ですが、どちらにしても、子どもを授かる、授からないは自分の意志ではないのだなぁということを想ってみるザマス。
セイ子ちゃんとラン子ちゃんとの相性もあったりするものザマス。
双子を狙って双子になる人はいません。
三つ子を狙って三つ子になる人も居ません。
全ては授かりザマス。だからこそ人間の個人の願いとして、あまり強く願わないことが大切です。
欲しい欲しい、と願うからこそ、授かれない時にガッカリ感が増すザマス。
目的を変えて、旦那さんを愛を深めるため♡にこそ極楽イタすザマス。
旦那さんとの愛を深め、二人の今後のアイの深まりをこそ【授かる】ためにイタす♡べきです。
※イタス…HOTOKEの頭文字、おSEXの意。
すると神様だか仏様だかコウノトリサマだか授かりセンターからの気まぐれで授からせて頂けるかもしれなかったりするものザマス♡。大切なのは、そんな人様から言われたことでプレッシャーに感じてせっかくの結婚して3年目のラブラブ期間が他人のプレッシャーで冷めて台無しになってしまうことです。そんなことであなた方夫婦の愛を冷ましてはいけません。今夜もラブラブであられますように。オギャー、あ、何か聞こえました。良い、極楽を。グッド成仏。
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※実際、そういうプレッシャーを無くした方で、体の力が抜けて授かった、という話があります。
気負いすぎたり、緊張、プレッシャーがない方が良い、という趣旨のお話です。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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