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他の宗派が羨ましいと思ったことありますか?

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ぶっちゃけ寺というテレビ番組に5人のお坊さんが出てて、他の宗派が羨ましいと思ったことありますか?という質問があってお坊さん全員があると答えてて面白かったのですが、やっぱり羨ましいと思うときありますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

そこをいきる

最近感じる事ですが、他の宗派の教えを学んでいたとしても、きっとその中でも自分が納得する心の在り方を学んでいたのではないかと思います。
 その気持ち、底抜けな菩提心がありさえすれば、宗派とわず、自分の心を最高に安心させて幸せに導く原動力になるからです。菩提心が先であって、宗派云々はあとからのような気がいたします。(^<^)
 ちなみに曹洞宗僧侶はぶっちゃけあまり宗派意識が無い宗派と言えます。
道元禅師が❝曹洞❞とか❝禅宗❞などと宗派めいたことをも標榜するべきではない、と示されているくらいですし、本山に行った時も、一体どこに曹洞宗の中核、中心があるのかと探しましたが、私は見つけられませんでした。(笑) それで良かった、それが良かったのであろうと思います。
今日本の仏教もみなそういう精神があるから、このhasunohaのように和合、融合できているのであると感じます。
 誰それの教えが最高で、それ以外はまがいもんである、みたいな姿勢だと宗派と宗派で争いになっちゃいますによって、難しく考えることを止めて宗派の違いをラーメンの違いみたく考えれば問題なく互いに尊重できます。
おまけ
「当方、魚介系つけめん宗、平打ち太麺派でござる。」
「当方、とんこつ宗、極細ストレート麺派にござる。尊侯の宗派では最近スープがよく絡む太麺で縮れ麺派も出てきましたそうですな。」
「イヤイヤ、アレは邪道です。あっという間にスープが無くなってしまうので開祖様は禁じています。」
「何を言うか、そもそもつけ麺自体が邪道でござろう!通常ラーメンであれば一食150gの麺で済むところを、200g、400gとは!さらには特盛で大般若経600巻もびっくりの600gとは笑止!この寒い時期にはスープが冷めてしまうではないかっ!」
「何を言うかっ!替え玉とてそれは同じでござろう!10玉もお代わりをすればスープがそこを尽きてしまうではないか!」
「無論上客へのスープのお代りはサービスでござる!」
「それはこちらとて同じこと!当方、さらにはスープ割りもお出ししてござる!」
「なにをいうか!」
のように争わずラーメンはどれであっても❝美味い❞が一番。
宗派も❝いいねぇ❞が一番。どこに所属していても❝いいねぇ❞は作れるし、互いに❝いいねぇ❞とリスペクトしあえる関係がベストです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ぶっちゃけ、あります。

でも、それは「隣の芝生が青く見える」類なのだろうと思います。大抵は自分の宗門のやり方に対す不満であったりして、他の教義の方が良いとは思いません。本当に他の宗旨宗派が良いと思えば、改宗せずにはいられないでしょう。

私は寺の生まれ育ちではなく、御縁あって今のお寺に入りましたが、この宗派で良かったと心底思っています。

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おきもち

 浄土真宗(大谷派)/広島県広島市/17世住職。  1967年京都市生まれ。山形大学理学部卒業後、証券会社で勤務。30歳で脱サラし、親戚筋の超覚寺に入寺、45歳で住職継職。  遺族の分かち合いやお悩み相談などグリーフサポート活動を続け、お寺の掲示板による法語伝道にも尽力している。カープ坊主の会会員。
こちらに法事が入っていなければ、ご希望の日時に相談させていただきます。 想いを吐き出しても、あなたの環境は変わりませんが、あなたの気持ちは変わっていきます。 どうぞ安心してお話しください。

国籍と同じ感覚

私は生まれ育ちも寺だったので、主体的に選択して宗派を選んだわけではないですが、尊敬しても羨むことはあまりないです。

感覚は国籍と一緒で、日本人として生まれたことに誇りを持ち、他国の文化や意思を尊重しながら生きているイメージです。
もちろん、アメリカに行けば格好いいなぁ、すごいなぁ、と思うこともありますが、だからと言って日本ダメだ!
とはなりません。
他国に行けば日本の素晴らしさも悪いところも見えます。

勿論、他国に魅了されて国籍を変える方もいらっしゃいますし、それはそれで良いと思います。

僧侶としても、宗派としても、自分がそこに生まれたことに縁起と使命を感じ誇りを持ちながら全うしたいと思っています。

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天台宗 高龍山明王院普賢寺 住職。 一般大学、アメリカ留学、一般企業を経る 比叡山延暦寺にて修行。 生きている人のための仏教を支援する会社、結縁企画を創業。 好きな言葉「怨みを以って怨みに報ずれば怨み止まず、徳を以って怨みに報ずれば怨み、即ち尽く 伝教大師」 夢は「和の仏教を世界に発信する国際的な僧侶」

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