バチを当てて欲しい
本日はよろしくお願いします
職場で私は責任者なのですが、経営者の男性から
長年モラハラをされています。
肉体関係になった事もあります。
給料がいいので子供が大学を卒業するまでは辞められません。
それを知っているので、何をしても何を言って我慢すると思われている様です
その人が、身内の方が病気になった時、いきなり
社寺巡りを始め、地図にのっている有名な社寺を片っ端から巡り、地図に印を付けています。
どんな人間でも拝めば救われるのが仏教ですか?
その時だけ拝めばいいのですか?
私は悪い人間にはバチを当てて欲しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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救いもバチも自分のなか
いろいろとおつらい境遇をお見舞い申し上げます。
拝めば救われる。
間違いはないのですが、拝む対象を間違ってはいけません。
拝まねばならぬのは自分自身です。
ほとけとはこころです。心という、外から見たものではなく、
自分自身のなかからみた「こころ」がほとけです。
バチがあたる。
これも間違いではありません。
しかし、バチは外から与えられるものではありません。
自分が自分によって与えられるものです。
寺とはそういうじぶんをかえりみることの出来る場所です。
何事も自分をかえりみて、そのなかから生まれてくるのが
救いでありバチであります。
外に救いもバチもありません。
京都に天龍寺、或いは苔寺というお寺があります。
このお寺の庭を造られたのは、夢窓国師というおぼうさんです。
このお坊さんは言います。
「自然のなかには、得るだとか、失ったとかはなにひとつない。
全部、自分のなかから生まれてくる。
極楽も、地獄も、自分が作って、自分でそこに住んでいるのだ」
経営者の男性の方は、上にあてはめればもう地獄に住んでいる事は
誰にもわかることです。
あなたご自身もまた、地獄に身を置いておられるものと存じます。
モラハラを受けているというその事実を法によって罰するのが
「バチ」であります。彼自身の身の錆びそのものであります。
ほとけに求める、つまりそれは、「自分自身」に求めることです。
はやくにあなたのおこころが、安らかとなりますことを祈ります。
質問者からのお礼
すべて自分のこころなのですね
自分を顧みることで救われるのですね
その人が不幸になればいいと、望んでいたのでは、自分自身で地獄に身を置いている、という事ですね。
難しいお話でしたが、何度も読み返し、お坊さまのお言葉を私なりに理解出来ました。
どうもありがとうございました