お坊さん、寺社仏閣の近代化に違和感
私は、お坊さんや寺社仏閣が近代化していることに違和感を感じてしまいます。
例えば、手水舎の水がセンサーで出る仕組みになっていたり、タイマーで自動的に鐘をつく機械があったり、卒塔婆用のプリンターがあったり……
自動鐘つき機を設置している方のインタビューで「朝起きるのが大変だから設置した」という主旨の答えがあった時には「そういうもんじゃないだろ!」と突っ込んでしまいました。
他にも、袈裟を着たお坊さんが高級車に乗って家を訪れてきたりするときも不思議な感覚になってしまいます。
私的には、こういう近代的なものからは離れたところに存在するのがお坊さんであり、お坊さんたちがいる場所であると思うのです。
この考えはもう『古い』のでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
むしろ新しい
卒塔婆プリンターや自動鐘撞き機は実際に取り入れているお寺もあると聞きます。
「そういうもんじゃないだろ!」という、狐の婿入りさんのツッコミはもっともです。僧侶の堕落と言ってよいのではないでしょうか。
ただ、昔からお寺や僧侶というのは常に最先端でありました。新しいものをどんどん取り入れ、さらに新しいものを発信していたのです。古いもの、いわゆる“わびさび”がよいとされるようになったのは茶道の影響が大きくて、江戸時代になってからだと聞きます。ですので仏教2500年、日本仏教1400年の歴史から見るとむしろ新しい考え方だと思います。
どちらにしろ、お参りに来る方が違和感を感じるようでは本末転倒ですから、そういうお寺や僧侶には容赦なく(?)突っ込んで、お互いより良い道を探してまいりましょう。
違和感 は 何によって生まれるか を 問う
あなたがこの話とは別に、自身を見つめ問題にして頂きたいことが二つあります。
一つ目、それはあなた自身が「物事に対する善し悪しを問う」、「是非を問うこと」です。
物事や他人に対いて「え、これってアリ?」「あり得ない」「受け入れ拒否」という❝判別心❞や❝さばきのこころ❞が強いことで、今後あなた自身がその正義心によって自他ともに苦しみの材料を生み出さないかどうか。そこは気をつけましょう。(^<^)苦しみとは言わないまでも、心の引っ掛かりになっていることは確かでしょう。あなた自身にそういう心が強いと、それが苦しみのタネになりかねないということです。
もう一つ。
違和感は何によって生まれるか。
それはあなたが事前にモノや人に対する❝こういうものであるべきだ❞という事前設定、期待、願い、要求があるということです。
それが為にあなたの心に違和感が生まれてくるということを知っておくと、今後あなたが異文化と接してゆく中で、違和感、引っかかり感なくライトな心で生活することができると思います。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
『便利』や『合理的』という小手先のモノで、神聖なものを片付けてしまうこと、はやはり軽率でありますよね。
僧侶の方々にはお会いした時に、
この件について色々と意見をもらいたいと思います。