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お坊さん、寺社仏閣の近代化に違和感

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私は、お坊さんや寺社仏閣が近代化していることに違和感を感じてしまいます。

例えば、手水舎の水がセンサーで出る仕組みになっていたり、タイマーで自動的に鐘をつく機械があったり、卒塔婆用のプリンターがあったり……

自動鐘つき機を設置している方のインタビューで「朝起きるのが大変だから設置した」という主旨の答えがあった時には「そういうもんじゃないだろ!」と突っ込んでしまいました。

他にも、袈裟を着たお坊さんが高級車に乗って家を訪れてきたりするときも不思議な感覚になってしまいます。

私的には、こういう近代的なものからは離れたところに存在するのがお坊さんであり、お坊さんたちがいる場所であると思うのです。

この考えはもう『古い』のでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

むしろ新しい

卒塔婆プリンターや自動鐘撞き機は実際に取り入れているお寺もあると聞きます。
「そういうもんじゃないだろ!」という、狐の婿入りさんのツッコミはもっともです。僧侶の堕落と言ってよいのではないでしょうか。

ただ、昔からお寺や僧侶というのは常に最先端でありました。新しいものをどんどん取り入れ、さらに新しいものを発信していたのです。古いもの、いわゆる“わびさび”がよいとされるようになったのは茶道の影響が大きくて、江戸時代になってからだと聞きます。ですので仏教2500年、日本仏教1400年の歴史から見るとむしろ新しい考え方だと思います。

どちらにしろ、お参りに来る方が違和感を感じるようでは本末転倒ですから、そういうお寺や僧侶には容赦なく(?)突っ込んで、お互いより良い道を探してまいりましょう。

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個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

違和感 は 何によって生まれるか を 問う

あなたがこの話とは別に、自身を見つめ問題にして頂きたいことが二つあります。
一つ目、それはあなた自身が「物事に対する善し悪しを問う」、「是非を問うこと」です。
物事や他人に対いて「え、これってアリ?」「あり得ない」「受け入れ拒否」という❝判別心❞や❝さばきのこころ❞が強いことで、今後あなた自身がその正義心によって自他ともに苦しみの材料を生み出さないかどうか。そこは気をつけましょう。(^<^)苦しみとは言わないまでも、心の引っ掛かりになっていることは確かでしょう。あなた自身にそういう心が強いと、それが苦しみのタネになりかねないということです。

もう一つ。
違和感は何によって生まれるか。
それはあなたが事前にモノや人に対する❝こういうものであるべきだ❞という事前設定、期待、願い、要求があるということです。
それが為にあなたの心に違和感が生まれてくるということを知っておくと、今後あなたが異文化と接してゆく中で、違和感、引っかかり感なくライトな心で生活することができると思います。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。
『便利』や『合理的』という小手先のモノで、神聖なものを片付けてしまうこと、はやはり軽率でありますよね。
僧侶の方々にはお会いした時に、
この件について色々と意見をもらいたいと思います。

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