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根無し草な生き方と結婚との葛藤

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はじめまして。
私は、同じところに留まれない人生を送ってきました。

地元が好きではなく、実家も嫌いで学生時代から就職してしばらくは首都圏で暮らしました。
その頃は夢を追って過ごしていたのですが、にっちもさっちもいかない自分にだんだん嫌気がさし、英語も勉強していたので、海外に行ってみようと、お金を貯めるために実家に戻りました。

しかし、元々両親が苦手ということもあり、実家で言い争いをし、家を出ることになり、お金は貯まるどころかマイナスになりました。

アパートもどんどん安いところへ引越しをせねばならず、職も長続きせず転々とし、あげく体調も壊し、もう夢なんて良く分からなくなってしまいました。
そして、また元気だったころの首都圏に戻りたくなっています。もしくは、別のどこかに行きたい。

そんなガタガタな私を支えて、ずっとお付き合いしてくれた彼氏がいます。地元で出会いました。その人は本当に優しく愛情深く、守ってくれました。
この人とずっと過ごせたらどんなに幸せかと思うのですが、彼は地元にご実家がある長男なので、そこから離れることはない方です。
①地元が好きではないこと、今後も好きになれるか自信がないこと
②自分自身がふらふら何処かにまた行きたくなる気がする
ので、結婚することに覚悟がもてません。

別れを選ぶのも辛く、同時にあんなに優しい人を傷つけることになる勝手な自分にも失望しています。
また帰ってくればいいとしても、そうなる確証も持てず、どうしてこんなに何処かに行きたいと思ってしまうのか、自分の性質が嫌でしょうがありません。

地元に残り、彼氏と結婚するべきなのでしょうか。
それとも、一度離れてみてもいいのでしょうか。

長々とすみません。
自分ではもう決められず、相談させていただきました。どうぞ宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

聖なる求めもあることを知りましょう

人間、根無し草ではありません。畑を探して飛び回るタンポポの綿毛だと思えば良いでしょう。
生命の活動、エネルギーなのです。
全ての人が、同じところにとどまらない心の在り方をしています。とどまらなくていいのです。
ただしとどまっていないというのは心の状態のことです。
同じところ、同じ心でとどまっていないのが、心の本来の在り方である、と悟った人たちは口をそろえて言っています。そうでないと思いこむのは単なる自我、エゴ、自分の都合です。ですから自分の両親とも関係をきちんとより良い方向へ修復するべきでしょう。
地元も好きになれます。あなたがどうせ、好きになれないと思いこんでいるだけでしょう。そうでなければ何故そこに人が存在するというのでしょうか。彼氏さんや、地元ラブな人たちから意見を伺うのが良いでしょう。
あなたは自分を大事にするがあまり、自分のエゴ・自我を優先して地元の良い所に目が開いていないだけです。悪いことではありませんが、軌道修正放されるべきです。
生きる事の本質はたとえ船に乗って波に流されているにしても漂流、行き当たりばったりでは何処にもたどり着けません。ちょいときついこと申し上げます。それ以上は言いませんが、アナタいい恰好、イイトコロ、いい場所という条件をあなたがゼータクに持っていることが最大の原因なのではないでしょうか。
求めの心自体を見つめ直し機縁と致しましょう。
あなたの求めの心こそがあっちゃこっちゃふらついているだけです。
欲しがることがイケないのではありません。欲望というエネルギーを地に足をつけたエネルギーにする必要があります。生きたい、死にたい、も同じ原動力です。
その同じ原動力を自分の向上の為により良く使うべきです。
仏教では菩提心といいます。自分の我にエネルギーを注ぐのではなく、我を離れるためにエネルギーを注ぐのです。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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