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親不孝

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有り難し有り難し 19

高校時代、進学校での勉強がつらかったのと、部活が忙しすぎて精神を病みました。部活がとにかく厳しくて、精神を病む者が続出し、私は何とかしなければと一人で抱え込んでしまいました。成績も下がり、親にとても心配されました。

3年になると余計ひどくなって受験ノイローゼみたいになり、3か月学校を休みました。大学には何とか受かりましたが鬱状態が続き、何かあるとすぐ親にあたってしまいます。

好きで始めたサークルさえ疎かにし、最近は授業もさぼりがちで、バイトも行きたくないなどと幼稚に大騒ぎしながら少し通っただけでやめました。弟の受験もあり、母はすごく痩せてしまいました。

最近まで自分が親不孝なことをしている自覚もなく、家ではやりたい放題言いたい放題でした。自己嫌悪に陥り、私があまりに後ろ向きなので友人関係も破綻しそうです。朝も起きられず毎日ぼうっと過ごしています。

周りにはもっとつらい人もいるんだよと親に言われてしまいました。こんな自分が情けないです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

親は迷惑をかけられているくらいが「孝行」

こんにちは、ざっきさん。
真宗大谷派の釋理薫と申します。

高校時代からの「辛さ」をかかえたまま大学生になり、大学生活にも影響なさっているのですね。
そのことでお母さまを悩ませてしまったことが「親不孝」なのではないかと。

そうですね。
人は一人で生きているのではないので、ざっきさんの辛さを受け止めているお母さまも大変だったのではないかと思います。

もしお母さまの負担を減らしながら、自分の辛さに向き合うためには、家族以外の人に相談されてはいかがでしょうか。

お医者さまでもいいですし、ご縁のあったお寺のお坊さんに話を聞いてもらってください。
ほんの二言三言聞いてもらうだけで、すこしは落ち着くかもしれません。

また、親は迷惑をかけられているくらいが「孝行」で、まったく頼ってもらえないのも辛いものです。
でも、ずっと頼られて疲れてしまったのかもしれませんね。

「辛さ」や「苦しさ」は、他人と比較できません。
ざっきさんの「辛さ」に向き合えるよう、お母さま以外にも話をされてはいかがでしょうか。

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有り難し
おきもち

真宗大谷派(東本願寺)僧侶 東京品川 日夜山正徳寺 住職 主な活動 ・正徳寺声明会(しょうみょうかい:お経の練習と法話)月一回開催 ・こども囲碁道場 月一回開催 講師:日本棋院 王唯任五段 ・こども すみえ おえかき道場 隔月開催 講師:墨絵画家 本多豊國 ・「対話する夜」 月一回 都内のいろいろなお寺で平日夜にお坊さんを交えて対話する会 この他に、寺社フェス「向源」のお手伝いなど

お姉ちゃん意識に疲れていませんか

❝立場❞を一度捨ててみると良いと思います。
あなたはお母さんにとっては娘です。それは一対一で対等であることを自覚しましょう。
兄弟の中では長女ですから、それを意識すると重圧を感じるかもしれませんね。
「長女あるある」を一度覗いてみてください。
自分の悩みが「あ」と思い当る事が書いてあります。
さて、病気や心の病み、闇、止み(停滞)は罪ではありません。
罪ではありませんが、病みから健全になるべきであり、闇から明るみにであるべきであり、停滞、とどまりである❝止み❞から1ミリでも進むべきです。今回のご相談が最初のペダルでした。一番力がいる所でした。でもそのペダルはこがれました。坂道もあるかもしれませんが、前進することを忘れなければ、もう停滞はありません。停滞したっていいんです。ブレーキかけたっていいんです。前に進んでいきましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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