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写経の扱いについて

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今年に入ってから、毎日、写経をています。もうすぐ一年分になりますが、どのように扱えばよいのかわかりません。
初詣の際に、お焚き上げをしても良いのでしょうか?
ご助言をお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

できたら納経を

初詣の際のお焚きあげでは、破魔矢や達磨、お札・御守、と一緒になってしまいますから、できれば、納経をされてください。大きなお寺や、札所になっているお寺に行くと、本堂前に写経を納める「納経箱(写経箱)」がございますのでそこに納めてください。365日いつでも大丈夫です。(本来、納経した証にいただくのが御朱印です。ですから御朱印を頂く場所を「納経所」といいます)
また普段から写経会などをしているお寺ならどこでも受け付けていただけると思います。

もし、近くにそういうお寺がなければ、一般の寺院にお願いして本尊さまの御宝前にお供えしていただきましょう。そのあとは各寺院でお焚きあげ、もしくは土中に埋めるなどの作法でパピルスさんの浄行を仏さまにお届けします。

なお、一部宗派では「祈願」や「供養」そのものを受けていないところもございますのでご注意ください。

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個別相談可能
住職のかたわら、大道芸人PRINCOちゃんとして幼稚園保育園など各種施設、お祭りなどのイベントに出演中です。 ◆大道芸人プリンコちゃんホームページ http://princo.fc2web.com/ 真言宗豊山派総合研究院 布教研究所常勤研究員 常任布教師 仏教伝道教材の「なむなむ」代表 流山市青少年環境浄化事業推進委員会 環境部会長 流山市青少年指導センター補導員 連絡協議会副会長 保護司(柏地区流山支部) 柏マジッククラブ会員 日本ジャグリング協会会員 流山ジャグリングクラブ顧問 日本ツイストバルーン協会会員 ◆PRINCOちゃんねる(法話動画など) https://www.youtube.com/channel/UC4gxIC4-oeR4ns3FpNr8vqA?view_as=subscriber
ただし、午前6時~午前0時まででお願いします

さらには中身を

一般的には納経して納経料を納めて、満足。ホナさいならです。
当方の八角堂の二階は納経所があります。
ですが、納めるだけにするなら他のお寺に願いたい。
ただ、納経するだけであなたが本当に満足かどうか?
お経とはわかりやすくいえば楽譜、レシピです。
素晴らしい曲が書かれています。
素晴らしい調理法が記されています。
なのにそれを聞かないのか。それを味あわないのか?
お釈迦様の心のような素晴らしい「心になれる方法」が書かれているのですぞ?
通常、お経を写し終えたら今度は、実際に書かれている中身、演奏、調理に値する「真意」の探求をするべきでしょう。私も求めました。ちゃんと幸せになれました。
すると、お経は読む写すばかりではなく、行うものであることに気が付きます。
アナタが記したお経は何でしょうか?
とても良いことが書かれているはずに違いありません。
市販の書籍ではただ訳文が書かれているだけですから、息吹がありません。
そのお経という楽譜、レシピを読み取って、弾きこなし、調理を極めるがごとく息吹を吹き込める僧侶がこの世には大勢います。
そういう人との出会いを求め、文字の上ばかりではない、お経の真意を読み取ってください。
それが古代エジプトより伝えられたパピルスや中国の木簡などに記され歴史を超えて刻まれた大事な精神。パピルスさんの身心に記されるべきこと、肝に銘ずべきことでしょう?

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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