ビルの霊園
また、カキコさせていただきます。
よく、テレビコマーシャルでやっているビルで管理している霊園、カード一枚で仏様に会えるという自動化したお墓、ご住職さまにはどうゆうふうに見えるでしょうか?まあ市営霊園、お寺の敷地にはもう限界が来てこれ以上墓は作れないという事情があるとおもいます。
通常の石だとお金何百万とかかりますしね。
過去にもこういう質問が有ったかと思います。
また聞かせてくださいませ。
母の介護、今は施設にいますが私は無職です。 年齢は45歳です。母は2014年4月から6月までデイサービス、7月からデイサービスと施設との両方、2015年4月から施設に完全な入居です。 兄との3人家族です。父は2006年に他界。 とにかく自分を否定されると気にしてしまう、その言葉が頭から離れず、 いつまでもくよくよしてしまう。他人と比較してしまう。 必要最低限の生活ができるだけで幸せだと思います。 自分の周りに人が集まってくる人物になりたいです。
私はもう10年、ふわふわめまいで苦しい日々を過ごしております。病院で頭や胸、血液検査などの確認をしても異常なしといわれ、正式な病名は一度も言われた事がなくどうすればいいのか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あくまで個人的な見解です
田舎の禅僧です。
私は嫌いですが、理解は示さざるを得ません。
なぜ嫌いか?お墓とは人間社会と自然界の境界です。人はその人生を終えると大自然に還ります。その世界観をあのようなお墓から感じ取ることができるのか?という点です。難しいでしょう。いつまでも人間社会に止めおこうとする印象しか私は受けません。
もっと言えば、お供え物はすぐに持ち帰らねばならないような都会のお墓もいかがなものかと思っています。人は自然に還る…これは故人と大自然そのものがイコールになるということです。だからお墓のお供え物は故人へのお供えであると同時に、自然界への布施でもあるわけです。自然界と故人がイコールなのだから、自然界へのお供えがそのまま故人へのお供えです。昔の人はこう言いました。「お供え物は虫や動物が草葉の陰のご先祖さまに届けてくれるんだよ」と。墓地の立地も人が住む村と、自然界としての野山の中間である里に作られていました。自然の恵みをいただいてばかりではなく、お供え物を通じて定期的に人間社会から自然界へ還元していたのです。
しかし、昨今は虫や鳥が食い散らして汚くなるから、お供え物はすぐにお持ち帰りくださいと…これは形式だけですよね。実生活に根付く哲学が無いから、宗教が形骸化する。嘆かわしいことです。
山に食べ物が無くて都市部にイノシシが出るようになった!異例だ!というようなニュースの背景にもこのような日本人と自然界との関係が壊れたことがきっと関係しているでしょう。里という緩衝地帯の消滅も大きいです。
その一方で都市部でのお墓の不足も事実です。例えば保育所を建てる場所にも困っているような所でお墓を作っている余裕は無くて当たり前です。お墓だけの問題では無く、人口が過密すぎるのですよ。そういった場合にどうなるか?歴史的にはヨーロッパのカタゴンペが挙がるでしょう。ググってみてください。あるいはガンジス川に流すようなやり方です。異文化だからそう見えるのでしょうが、なかなかにおどろおどろしい感があります。それらとビルどっちを選ぶかなぁと考えると…う〜ん。。。
なんとも言えませんが、1つだけ断言できることがあります。田舎に住めば良いんです。物価も土地も桁が違います。田舎に住むだけで大概の問題は消失しますよ。仕事があれば…ですが。。。
私一個人の意見です。
ずみひと様
釋 慧心と申します。
ご相談、拝見させて頂きました。
一つのご参考になれば。
墓地や納骨堂というものは、
宗教的な側面と、土着の文化や原始的信仰の側面、また、
現在は墓地埋葬法という、法規的な側面など、多角的に見ていく必要があり、
その中でどこに重きを置くか、で、その見方や受け取り方が変わってくると思います。
また、墓地や納骨堂などは、ご家族やご親族のご意向というのも無下には出来ません。
こちらの方が、後々の揉め事の種になりかねないこともあり、疎かに出来ないとも言えると私は思います。
墓地や埋葬の興りは、死者や死を穢れと恐れ、我々の生活圏から遠ざけて、山や谷に遺体を捨てたり、死者が災いをもたらさないよう、埋葬するようになっていったと言われております。
また復活や魂の生まれ変わりを願うなど、諸説様々です。
また、遺体をそのままにしておくと、腐敗し、悪臭や疫病が蔓延する原因になったり、野性動物が食い散らかすので、それを防ぐ為などもあげられます。
仏教では元々墓を作るという概念がございません。
しかし、仏教徒だから墓いらん。とズバッと言い捨てること難しいことです。
仏教で墓と言いますと、どちらかと言えば納骨にあたりますが、お釈迦様のご遺骨を納めたとされる仏塔がそれに近いのかも知れません。
と、長くなってしまいましたが、、私の結論を言いますと、信仰や恒久性を問わないなら、ビルや会社運営の墓地納骨堂も認めざるを得ませんということになります。
というよりは、信仰があり恒久性を求めたくても従来のスタイルが保てないのも現代の事情でしょうか。
寺院や自治体の墓地などは、一つに永く久しくそこにあり続ける可能性が比較的高いと言えるでしょう。
末代まで、思いや願いを伝える対象の一つ(宗派にもよります)となりうるでしょう。
また、先に上げました墓地埋葬法という法律上、好きなところに人骨を埋めたり撒いたり出来ません。
したがって、行政で引きとって頂くか、何らかの所定の場所を確保する必要があります。
費用や場所という、我々の生活に根差した問題も加味して考えなければ仕方がないでしょう。
行政で引きとって頂く場合、保管場所を持たない行政では、悲しいですが、人骨は産業廃棄物として扱われます(私はこれで十分ですが)。
我々の住む世界はドライな面が多いですね。
先祖を想う心
こんにちは。お礼文も拝見しました。お寺の保育所経営にご理解をお示し頂き、ありがとうございます。
さて、お墓の考え方として、浄土真宗の私個人のイメージでは、お寺の本堂やおうちのお仏壇と同じような感じがあります。
「仏様に出遇える場所」という事です。
本堂やお仏壇においては仏像や絵像、過去帳を通して、またお墓においては墓石や遺骨を通して仏様の「おみのり=法」に出遇わせていただく。
ご縁は様々ありますし、形も様々なのだと思います。
ただ、両親や祖父母がしていたから~と惰性で行うよりも、自分自身にとって大切な行いなのだと理解して行う方が良いと思います。
ですので、あまり形にこだわらずに、仏様や先祖を想う心を確かに持ってすれば、それでいいと思います。
若僧の1意見ですので、ご参考までに。
質問者からのお礼
お忙しい中、そして早朝からのご回答ありがとうございます。私の家のお墓も70年代に建てた市営霊園の墓で縦長の石の墓です。やはり世代交代なのか周りの家のお墓は草ぼうぼうあれ放題の墓が増えていて、今のお墓は石がかなりコンバクトになって縦長のお墓は少なくなり、敷地もそろそろ限界に来ているのでビル管理のお墓も否定できないと思います。
ぼくの住んでる場所は森林伐採して新築の家が建って道路は綺麗になっても商店が少ない中途半端な街なので、空気の綺麗な長野県あたりに引っ越ししたいなあと思います。hasunohaのご住職さまの中にはお寺と幼稚園、保育園を経営されている方もいらっしゃいますが、檀家の高齢化、少子化で大変な状況の中運営されているのでされて大変ですね。
追記
最近、自然界の破壊、山を崩し、木を伐採し住宅地にして動物が食べ物が少ない理由で市街地に降りて来る。その他、集中豪雨による土砂崩れ、今後もなくなる事はないでしょう。