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写経、写仏について

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私は仏教徒かどうか確認したことはありませんが、仏教徒でなくても写経や写仏の体験をしてもいいのでしょうか。

仏像を眺めることが好きで、京都や奈良などのお寺に行くことがあります。
仏教に関して知識があるわけではありませんが、何故か惹かれるものがあります。

最近、写経や写仏に興味を持ち体験してみたいのですが、仏教徒でないといけないのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

どうぞなさってください。

古くから「写経」は師匠の許しがなければできませんでした。
選ばれたわずかな僧侶が許されることでした。
現代では、「写経」=「精神修行」、「写経」=「祈願成就」のように言われますが、そのような考え方は本来ありません。
写経を許される僧侶になれるよう、修行勉学をしていたのです。

今の時代にそのような縛りはありません。
好きな人が好きな時間に写経ができます。
是非、なさってください。
お経に何が説かれているのか。
現代語訳などを参考にしながら、写経なさることをオススメします。

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有り難し
おきもち

始めまして、釈心誓と申します。 浄土真宗本願寺派の僧侶です。 若輩浅学の身でありますが、多くの方のお支えの中で日々精進しております。 仏教には、「私が知らないことを仏様から聞かせて頂く」という大切な側面があります。 聞かせて頂くのは、仏様の智慧であります。 今まで仏様のご縁が遠いと感じておられた方が、少しでも仏法に触れるご縁になれば幸いです。

写経

仏教では仏教徒とか、それ以外という隔て意識はあまり感じません。
そんな狭い門ではありませんので、どなたでも体験することができます。
「写経」で検索すれば写経の体験ができるお寺が沢山出てくると思います。
当宗派の本山でも毎月25日付近で写経会があるのですが、大変人気ですぐに定員いっぱいになってしまいましたので、早めの申し込みを。
http://www.sojiji.jp/zenen/sanpai/shakyoukai.html
納経でしたら、当方も同じ埼玉ですので、ぜひお持ちください。
当山では坐禅会という写経会をやっております。
心にそのままお経をじかに写す会です。
文字で書くのも良いですが、心にじかにお経を記す方が、今後の人生の力にもなります。
お経って何が書いてあるんだろうと疑問に思いませんか?
本当にお経を読む、記す、写すとは、この心身がお経の如くになる事です。
そういう写経を体験したくなったら、禅会にご参加ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

釈心誓様

早速のご回答に感謝いたします。
仏教の世界や仏様のお言葉について少しでも勉強してみたくなりました。

今年は写経や写仏を体験してみようと思います。ありがとうございました。

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