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善とは、善の行為とは、難しいので教えて頂けますか。

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常日頃、よく考えることですが、とても難しいので教えて頂けますか。

善とは、善に基づく行為とは、どのようなものかということです。
心から他人のために何かをしたりしようと思うときに、必ずしも相手の価値観と自分のそれとは一致しないからです。しかし、相手のためにと純粋に思うなら、それは善の心ではないかと思います。ただ、何でもやって良いわけではないので、常識という規範が伴います。

自分が相手から、何かをしていただいたら、素直に有り難く思えるし、逆に何かいじめられたりひどい仕打ちを受けても、それをばねに前進してきたので、何が良いとも限らないと思って生きております。しかし、世の中には私と同じ価値観の方ばかりではないので、私がやって差し上げることで、善意を逆の意味にとらえる方もおられるかもしれません。そうであっても、世間の常識、良識、公序良俗に反しない行いであれば、相手がどう受け取ろうと、善と思う行為をやって差し上げたほうがよいのでしょうか、それとも、それこそ私の独善的な自己満足で本当の意味で相手の気持ちを考えていないからやるべきではないのでしょうか。理屈っぽくなりましたが、何年も何十年も折に触れて考えることなので、どうかお坊様、ご助言頂けますでしょうか、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

善を行うのではなく、善が伴うような行動、それが善行と心得ます

おしゃかさまは、「つねに相手をじぶんの身にひきあてて」
善きことを行い、悪きことをおこなうなと説かれています。

あいてへよかれと思ってする事、ではなく、自分の身に
ひきあててみて、いまどうすればいいかのなかで行動する。
それが善の行いになるのだと、お伝えくださっておられます。

じぶんの身にひきあて、その行いによって相手が喜ぶ、
ということは、自分自身の喜びにもなり、また、
そのこころを頂いたと置き換えることもできます。
わたしのこころに善をくださった、相手に感謝する。
まず、そこがすべてのスタートであり、それ以上の
ないこころのおきどころがあると存じます。

これを務めていけば、例え相手がそれをうけとらなくても、
させて頂けたという部分は変わらぬわけですから、有難いのです。

「善悪」という判断は、自分自身のなかからうまれ、それは
ひとぞれぞれです。ともすればじぶんの「善」を相手に強要する
ことになります。しかし、じぶんの身にひきあて、
させて頂くというよろこびのなかで務めを果たせば、
自然とその行いそのものが「善」になっていくと思うのです。

最初から「善」を行う、のではなく、
善が伴うように行動する。そこに、「善行」というものがあるのだと
わたし自身は思っています。

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悪を避ける

仏教では、悩み苦しみの原因である「煩悩」をのさばらせ、育てることが悪です。
煩悩を制御したりなくしたりすることが、善です。
仏教的な善は、自分と他人の悩み苦しみをなくすのに役立ちます。

欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩に気をつけて、
慈・悲・喜・捨(じひきしゃ)の四無量心(しむりょうしん)を育てましょう。
できれば、五戒(殺さない・盗まない・嘘つかない・不倫しない・酒や麻薬にふけらない)を心がけましょう。
激しい感情や妄想雑念に支配されずに、心を落ち着けて集中力を高めましょう。
身体は実は不浄(綺麗なものではない)であること、
眼耳鼻舌身意で感受する刺激の本質は苦痛であること、
心は瞬間瞬間に浮かんで消える無常であること、
法(心で考える概念)の本質は無我(執着に値しない夢幻みたいなもの)であることなどに
気付くように、
あらゆる現象を冷静に観察しましょう。

下手をして他人に迷惑をかけても、悪意がないなら「まぁよい」のです。
故意に他人を傷つけることは避けましょう。

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がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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一緒に遠回りできる善もある。

こんにちは。
質問文拝見しました。

善とは悪の反対語。
悪との比較の中で生まれる言葉。
ダイスキ様の心がけは善というより慈悲と言えるのではないかと思いました。

ただ、ひとつだけ。
最善を尽くすことが良いと教えられ育ってきましたが、
自分が思う最短ルートに導くだけでなく、自分は遠回りと思っても相手が選んだ道なら一緒についていく方法も人生の中にはあります。
そこが押し付けになるか寄り添いになるかの1つの境目になると思います。

最近の医学生さんは、オスキーなど患者さんの主訴を汲み取ることも試験で採点されますね。

患者が治らなきゃヤブ医者と言われる厳しい世界に身を置かれているお医者様と比べると、
僧侶の世界はぬるま湯のようで恐れ多いのですが、参考になれば幸いです。

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泰庵  一法
「変えるべきは自身ではなく歩む方向」「時間とお金の使い方」「向きが変われば...
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質問者からのお礼

早速、ご助言賜り、本当にありがとうございます。とてもとても、深くて難しくて、何度も何度も読ませて頂きました。一度には、そうだ!と心の底から理解するのは難しいので、ノートに書きとって、毎日読んで、反芻して、いつか本当の意味で、そうなのだ!と思えるように精進して参ります。
自分の身にひきあててみる、とか、させて頂くことに喜びを見出す、とか、今まではそのような観点で考えていなかったことに、改めて気付かせて頂きました。それに、善を行うのではなく、善を伴った行いが大切なのだとお教え頂きました。本当に、ご相談して良かったです、と言っても、まだまだ善行の境地には程遠いので、毎日精進致します。今後ともご指導よろしくお願い致します。

大変有り難いご助言を、またまた賜り本当にありがとうございます。善とは善なる行いのみだと勘違いしていました。悩み苦しみの原因である煩悩をのさばらせ育てることが悪で、煩悩を制御したりなくしたりするのが善、ということを教えて頂きました。すぐかっと腹を立てやすいとか、欲しい本があったら我慢するのが大変で、煩悩だらけです。まず、腹を立てない努力とか、欲しい本があったらよく考えて厳選するとかの努力をしようと思います。まず、他人に善を伴った行いをすることも考えつつ、自分の中の悪をのさばらせないように精進致します。いろいろご助言ありがとうございます。ご相談して本当に良かったです。今後も、よろしくお願い致します。

またまた、有り難いご助言賜り、本当に心から感謝です、ありがとうございます。私の考えていた善が、慈悲に近いとお教え頂きました。善と慈悲は実は近いようで微妙に違うようで、お坊様方のご助言をノートに取りましたので、毎日かみしめて参ります。自分は遠回りと思っても、相手が選んだ道なら一緒についていく方法も人生にはあるとのこと、それぞれの方々と寄り添って参ります。学生の頃に同級生と話したことを忘れていましたが、思い出しました。もし、目の不自由な方がいて、その人の歩く先に石が落ちていたらどうするか、ということで、友人は、目の不自由な方の手を引いて石を避けるのを手伝うと言い、私は、無言で石を先に避けておいてあげて目の不自由な方が私がしたことを気付かないまま、そのまままっすぐ歩いていけるようにする、と言って話し合ったことがありました。忘れていた気持ちを思い出させていただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

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