人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て自分の興味本位だけで人を殺してしまう犯人の狂気に恐怖を覚えました。 そしてそんな犯人に対してもう自分の欲望が満たされれば何をやってもいいという部分にもうこんなことをする奴はもはや人間ではない、見た目は人間でも人間じゃない化け物のような何かなんじゃないかという怒りも感じるようになりました。 被害者のことを考えると悪くないのに無残な死に方をした被害者、悪いことをしたのに司法制度の欠陥でのうのうと生きている加害者という不条理を考えるとただ死ぬのではなくひたすら酷い死に方で死なないと気がすまなくなってしまいました。もはや人でないから人権を剥奪する刑でも課したいくらいです。 できれば自ら制裁を加えていくらいですがそれはできないのでこのやり場のない怒りをどうしたらよいでしょうか。
新宿での焼身自殺、首相官邸での抗議デモなど、最近の「集団的自衛権」を巡っての抗議が行われています。 仏教的には、「流れに逆らわない」というイメージがあるのですが、今の現状の流れが戦争につながるかもしれない政治家の側にあるのか、戦争反対への自殺・デモなどの側にあるのか、もしくは大多数であろう「傍観者」なのか、疑問に思ってしまいます。 かつて、太平洋戦争が始まった頃ともしかしたら今は同じ状況なのかもしれないという気がしています。 太平洋戦争の頃の宗教家の言動などを踏まえて、今現在の宗教家の方々はどのように考えて、どのような行動を取っているのでしょうか? 大局に囚われず、右往左往するのではなく、今自分の眼の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切なのでしょうか?
虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?
こんにちは。いつもお世話になっております。ゆーりです。 今日は、スケープゴートについてお坊さんたちは、どう思われるか?を質問させてください。 スケープゴートというのは言わば、「仲間はずれ」だったり、「怒られ役」のことです。 Wikipediaには・・・心理学の一つの用語としても存在する。特に精神分析学や社会心理学において、人は無意識のうちに、不満や不快を覚えると、不快感やルサンチマンなどを他者に対して抱く。このような現象はあらゆる集団で発生しうるものであり、そうした不快感を押し付けられたり被られたりした個人は、その特定の集団内においてスケープゴートとなるのである。それ故、ユダヤ人の移動行動のようにスケープゴートとして犠牲になるまえに、他の地域へ移住することによって難を逃れるといった、適切な対処を行わなければならない。 とあります。 集団はストレスをその人に押し付けます。 自分が、人より優れていたい、人を蹴落としてでも、優位に立ちたいという人間の醜い一面が、見え隠れしています。 さらに一般には、スケープゴートが集団にいたほうが、集団がまとまることもあるようです。 こういう人が生まれてしまったら人間は、逃げる以外に方法はないのでしょうか? 何か、周りにできることはないでしょうか? また、こういう人が生まれないようにするには、どうしたらよいでしょうか? 今日、学科の留年してしまった友達が(一つ上)が、クラスでさらし者にされていて、自分は何もできず悔しかったです。 ぜひ、意見をお聞かせください。 人としてやはり、許せません。 また将来、教育者を目指すので、クラス経営などでも、役立つお話だと思います。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。
かなりの頻度で虐待で亡くなった子供たちのニュースを耳にします。ニュースになっているものは氷山の一角で、今この瞬間にも虐待されている子供たちがいるかと思うと胸が痛みます。 虐待のない世の中になってほしい、と心から願っていますが、私が今現在できることは祈ることしかありません。 心がざわざわします。私にできることは何かないのでしょうか?
最近仏教関連の事柄を勉強しています。 大抵のことには首肯でき、今までの自分にない発想に心が洗われるような気持ちになりますが、イマイチ納得出来ない部分もあります。 それについてはまた別の質問で書かせていただきたいと思いますが、今回は、ここにいらっしゃるお坊さん達が、仏教の教えの中で、今の世相に合わないのではないかと思った部分、疑問を持っている部分などについて聞かせていただきたいと思います。 なぜこのような質問をしたいかと言いますと、例えばイスラム教では豚肉を食べてはいけないという教えがありますが、由来としては「乾燥した地域で、牧草でなく穀物を食べてしまう豚が忌避されたから」「伝染病の蔓延や寄生虫による被害の元になるから」などの説があり、この教えは現代ではほとんど有用性がないといえます。このような、現代社会に合わない教えというものが仏教にもあるのではないかと思ったからです。 なんだか衝突を巻き起こしそうな質問で申し訳ありません。 「ない」という回答でも結構です。 よろしくお願い致します。
はじめまして。 タイトルの通りなのですが、世の中がすごくせっかちです。 みんな、暇を毛嫌いするかのごとく、常にどこか行ったり何かしたりしています。 そして混んでいることに腹をたてたり、マナーを守らない他人に腹をたてたりしています。 休み明けの仕事がしんどいほど、体力を消耗していて、週明けから文句ばかり。 人間関係でも少し間があると、沈黙は悪といわんばかりなムードがあります。 さらに、世の中ではテンポよく簡潔にオチをつけて話すことが要求されており、 じっくり考えて言葉を選んで話すことは、他人をイライラさせるのです。 仕事もそうです。 時間いっぱいにぎゅうぎゅうと予定をつめこんで、みんなが時間に追われてイライラしています。 表向きはキレイなことを言いますが、実際はお客様どころか自分のことさえも大切にせず、お金の利益を上げなければいけないことに神経をすり減らしているように見えます。 空気を読まないといけないせいで、みんな自分を大切にしなくなった気がします。 その空気だって、直接聞いたわけでもない、誰の人格でもない謎のものです。 自分の時間を誰かのために使って、それでみんなが幸せになるなら良いのですが、 自分の時間をすり減らして、心を病んで、今の世の中はどこに向かっているのですか? もっと、空を眺めたり、風を感じたり、自然を見つめたり、ボーッとしたり、 そういうゆったりした時間があって、初めて人に優しくしたり、じっくり人の話に耳を傾けたり出来るのではないでしょうか。 けれど、そういう時間が作り出せない社会になっています。
長文で失礼します。生きて行くなかでどうしても納得ができないことがあります。 ある大型衣料店でのこと。週末はこのお店は混雑します。 車で久しぶりに行く事になりました。駐車場は相変わらず混んでいました。 すると、大きな外車を改造したような、いかにもって感じの車が割り込み、しかもお店の目の前の障害者優先駐車場にどうどうと停めました。中からでてきたのは前頭葉が未発達の頭の悪そうな金髪ジャージ家族で子どもも金髪。タバコもその場でポイ捨て。 私たちはその後にやっと駐車でき、お店に入る事ができたのですが、障害者マークをつけた車が来て、停めれるはずの場所に大きな改造外車がどうどうと停まっているため駐車できずにいたのがなんとも心苦しく、私が駐車したばかりの場所を譲ろうとも考えましたが、お店の入り口からは遠い上に、他にも車が並んでいたので、それが困難であきらめました。私は罪悪で押しつぶされそうになりました。 なんだかんだでお店で買うものを選び、レジでならんでいたところ、例の先ほどの金髪家族がレジをしていました。すると、そのお店でキャンペーンをやっていたらしく、滅多に当たりもでないようなレジのくじに大当たりし、商品券が当たりとても喜んでいました。そうして、先ほどの障害者用にとめた車に乗って大音量の音楽で他を蹴散らし帰って行きました。 彼らには誰が罰を与えるのでしょうか。彼らは自分での罪悪も感じず、その行いすら気づきません。他人に優しくするような人は罪悪の判断ができるので、それだけ心苦しくなり、罪の意識も感じますが、彼らはそうではない。なぜならそれにすら気づかないのだから。 この一例に限らず、世の中はそういうところだと思っています。常に回りを考え道徳、譲ろうとするこころを持っている人には罰もくだり、その常識もなにもない人には罪悪もないので平気で悪い事をしても本人はしらない、もしくは他人よりもそれにより優越を感じているくらなので、幸せで仕方がない。で本人にはいいことばかり。 これが世の中でしょうか?
福沢諭吉さんの有名な言葉の中で 「世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です」 というのがありますが、久しぶりにこの言葉に遭遇して、ハッと我に返りました。 競争社会の中でいつの間にか他人の生活を羨んでいたなと。いつも忘れないようにしたいと思います。 この他に世の中で醜い事って何がありますか?
毎朝、満員の通勤電車に乗っています。 乗り換えの駅があって、その駅のホームの向かいに乗り換え電車(始発)が止まっているのですが、満員の通勤電車のドアが開いたとたん、向かいの乗り換え電車の席に座ろうと猛ダッシュで走って行く人がいます。 自分も疲れてるので、空いてる席があればもちろん座りたいですが、走ってまで席を取りに行きたいとは思いません。まわりを蹴散らしてまで必死になる人を見ると腹が立つのですが、本心は座りたいのに座れない自分を正当化しているだけなのでしょうか。 毎朝のイヤな気分から逃れたいです。