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政治への抗議行動について

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新宿での焼身自殺、首相官邸での抗議デモなど、最近の「集団的自衛権」を巡っての抗議が行われています。

仏教的には、「流れに逆らわない」というイメージがあるのですが、今の現状の流れが戦争につながるかもしれない政治家の側にあるのか、戦争反対への自殺・デモなどの側にあるのか、もしくは大多数であろう「傍観者」なのか、疑問に思ってしまいます。

かつて、太平洋戦争が始まった頃ともしかしたら今は同じ状況なのかもしれないという気がしています。

太平洋戦争の頃の宗教家の言動などを踏まえて、今現在の宗教家の方々はどのように考えて、どのような行動を取っているのでしょうか?

大局に囚われず、右往左往するのではなく、今自分の眼の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 5件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

国も犯罪を犯す事を忘れてはならない

国だから大丈夫、先生だから大丈夫、警察官だから安心などと言うことはありません。
政治とか宗教という言葉を忘れて考えてみましょう。
結論は「誰も殺されるべきではない」「殺してはいけない」です。
それが命ある者同士の当然のルールです。
この世に存在するもので自分とかかわっていないものなどありません。
ならばこそ政治はしかるべき人物こそが政治家になるべきであり、利益の為に人の命を軽んずるような政治思想はあってはならないことです。
かつてカルト教団が教理の理念の下に信者を殺したことを、いくらどんな理由で正当化しようとも誰がみても殺人は殺人です。政治の名の下に人が殺されて良い訳はありません。
人の命を尊重できない、争いを好む、自分の感情を克服できていない、固有の思想に偏った人間が政治の実権を握れば我々の生活が脅かされてしまいます。
現にそもそも必要のなかった消費税は3パーセントから5パーセント、8パーセントやがては10%に上がると言われ◎◎税、△△税という名の下、国が一番の「大泥棒」をしている時代です。課税課税が続くという事のものの本質は国こそ「泥棒をしている」ということです。
それを自制、規制する政治家もいないのが今の日本です。
我々も厳しい眼をもって政治の本質を見極めるべきです。
国が守ってくれるという幻想を捨て、国と言われるところの本部中枢、具体的には「個人」が国の命運を左右しているのです。
その為にも、今の時期から政治に参入するにふさわしい真の人材に焦点を当て、その人材を守り立てていく、力を貸すことが大切です。
選挙、投票よりもそういう人物を世に広く知らしめる、真の政治家を国政に介入させることこそ大切なのです。
戦争で誰か一人が死ねば、その人の親も家族も皆悲しむのです。
法律よりも、政治よりも、国の定めた規定よりも先に人間の実生活こそ優先される者です。
いよいよ政治や法律が私たちを戦争という殺人行為に加担させるような国家になりゆくのであれば、人を殺す前に、その法律をこそ滅するべきです。
人間が作ったものでない法、仏法は変えることはできないもの。
人間が作った法は、人間が改善、改良することができる。

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おきもち

政治と仏教について

すっぴん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

既に政治の世界から離れて10年程になり、今は中立・中道的立場でございますが、学生時代に政治家を目指して政治活動をしておりました。以下は、その頃の政治への想いを表した拙著でございます。興味がございましたらアマゾンの中古(280円~)でもどうぞ(笑)

「誇れる社会のために」
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/4-8355-7012-X.jsp

さて、「集団的自衛権」に関することについての個人的雑感につきましては、下記をご参照下さいませ。

「集団的自衛権に関しての雑感拙ツイートまとめ」
http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52167212.html

まず、仏教家・宗教家云々というよりも、この民主主義社会のルールの下で、とにかく国民・有権者一人一人がしっかりと政治への参加意識を高めて、確かなる選挙権の行使により、政治参加への義務・責務を果たしていくことが何よりも重要であるかと存じております。

次に、政治と宗教についてですが、世界史上でも宗教による政治的弊害の過去を鑑みて、政教分離の原則があり、日本においても「宗教団体の政治的権力の行使の禁止」を含む政教分離の原則が実質的にあるため、宗教が政治に介入するのは憲法的にもあまり好ましくないということは言えます。

また、仏教としては、釈尊ご自身が政治や社会運動・活動へ積極的に関わることをなさられておられなかったことから、仏教の態度としてもあまり介入せずに中立・中道的立場が望ましいと言えるのではないかと存じます。

唯一と言っていいのかどうかは広義において語弊があるかもしれませんが、釈尊の政治介入として有名であるのが、コーサラ国による釈迦族への軍事侵攻の際に三度、それを留めさせたことであります。しかし、四度目は無く、もはや釈迦族の業によるどうしょうもない厳しい因果の流れを見極められて軍事侵攻を見送られ、釈迦族は結局滅亡の憂き目となってしまいました・・

とにかく、政治や世論動向にあまり惑わされずに、何よりも善い行いに各々が努め励むことにより、より善い因果の流れを調えていくことが大切であるということになるかと存じております。

川口英俊 合掌

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おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
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兵戈無用

兵戈無用(ひょうがむよう)とは、仏説無量寿経の一説で、「兵(軍隊)も戈(ほこ=武器)も用いること無き」という意味です。現在のこの国の行方、世界状況を観てこの言葉の持つ意味を考えさせられます。

新宿での焼身事件や抗議デモからも大きく憂いている方々がたくさんいらっしゃることがわかります。仏教各派においても、これまで様々な抗議行動はなされてきていますが、右傾化に熱心な為政者たちにはどこ吹く風といったところでしょうか。

当派(真宗大谷派)でも、敗戦後50年の年に前大戦での反省をもとに「不戦決議」が宗会(宗派の議会)で可決されました。また、時の首相や閣僚が靖国神社参拝をされるたびに抗議文を発しています。

流れに逆らわないイメージですか? 当派の蓮如上人は「仏法を主とし、世間を客とせよ」とおっしゃいました。人の生きる道であり永遠不変な教えである仏法を主と据え、常に移り変わる世間やその価値観などはその都度客として対応せよ、ということです。逆らわないのではなく、それで良いのか? と、ご縁ある人々(同朋)とともに考え、間違いであるならばそれを正す方向を実践していくということではないかと思います。

日中戦争中、宗派はどんどん戦争協力に進む中、「戦争は罪悪である」と叫び続けた竹中彰元という方は、投獄されても同じことを叫び続けられたと言いますし、他宗派においても同様の僧方がいらっしゃっいました。

方法論はともかく、こういう先達のお心に学び、戦争という罪悪が再び起こらないようご縁ある方々と考え、少しでも良い方向に行くよう生活の中で実践していきたいものです。

合掌

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真宗大谷派寺院で住職をしております。真宗目線でお話できることがあれば幸いで...
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自然法爾

宗教家と言う言葉には、少し違和感を覚えてしまいます。

⚪️⚪️家とは、その事を生活の糧にされている方では、ないでしょうか。

私達は、僧侶です、生き方であり、一挙手一投足、一言一言、一呼吸一呼吸、残すもの、自分自身すべてが、僧侶であると、思っております。

モチロン、私にも家族が有り、生活をさせて頂いております。

人生は、蓮の華に、例えられます。

絶対に綺麗な水では、花は咲かず、実は結ばない。

蓮の華や、葉の茎は二メートル程あり、長い、しかし、風に逆らわ無いから、折れることは無いのです、

仏様が、語りかけて下さる言葉に従います。

そこに、自ずと自分自身の取るべき道はあると、思っております。

私見ですが
流される事も、振り回され事も、ただ、傍観する事も、あってはなら無いと思っており、例え微力でも、正しい導きを進みたい所存です。

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長谷雄蓮華 (ラジ和尚)
ラジオ パーソナリティ 『 命の 相談会 』開催 愛知県愛西市...
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振り回されない、煽られない。

こんにちは。ご無沙汰しております。
「右往左往するのではなく、今自分の目の前にある日常生活を淡々と過ごすことが大切か」という
問いに対しては、
「右往左往するのではなく、今自分の目の前にある日常生活を大切に過ごしてください。」が答えになります。

浄土真宗も一向一揆という大きなムーブメントを過去に経験しています。
私はそれに懲りている立場です。
私は抗議の自殺をするくらいなら、過去の戦争を乗り越えてきた方のために何かできることを必死に探すことに重きを置きたいです。

大局という言葉を使うのなら、「集団自衛権」を使ってほしいと思う人は本当はどこにいるのでしょうか?
仮に日本の偉い人が「自己実現だけではなく、嫌とはいえない誰かにずっと言われ続けていて、いよいよ断れなくなった。」という視点であれば、流れを変えるために目を向けるべき対象は国内にあるのでしょうか、外国にあるのでしょうか?政治にあるのでしょうか、経済にあるのでしょうか?

目に映りやすい部分と、鍵を握っている部分が一致しているとは限らないです。

「流れに対して執着を持って抵抗する」ことではなく、「流されてしまったあとに残された人に対し何ができるか」という視点を私は大事にしています。
それが、「流れに逆らわない」と映るのかもしれませんが、流れに逆らえずに流されてしまった部分もあることはご承知おきください。

お寺や老人施設でお会いするお年寄りの皆さんは、過去の戦争を生き抜いてきた方々やその遺族もいらっしゃいます。
メディアに煽られるあまり、その方たちへのフォローが疎かになることだけは避けたいです。

感情的な文章になってしまいすいません。
触発されるなにかと出会ったときに「淡々と」という態度をとるのは自分には難しいです。

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おきもち

自分のことはあまり好きじゃない。 でも、だから、せめて自分だけは 自分...
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質問者からのお礼

多くの皆さんから回答を頂きまして、ありがとうございます。
その後も、マレーシア航空機撃墜や、北朝鮮のミサイル発射、佐賀空港へオスプレイ配備などもあり、自衛隊員だけではなく、民間人でさえも「危険な状況」に流れているような気がしています。

今まで長い年月をかけて積み重ねてしまった政治への無関心、低い投票率などの因果が今の状況に繋がったということなのでしょう。
以前、どこかの法話で聞いたことがあります。
「長年、漁師をしていた親子。ある時父が海に落ちてしまった時に一緒にいた息子は親を助けることも無く、そのまま出家した。」と。
その話で「起きてしまったことに慌てて対応するのではなく、自分がすべきことをすべき」ということを学んだ気がします。

「世の中・社会のできごと・風潮」問答一覧

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

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日本が一番ではない

僕が24年間生きている中で日本が一番ではありません。みんなは日本が一番だと言ってますが。日本つまらないし毎日刺激もないし変化が全くありません。サッカーの試合も見ましたがあまりつまらなかったです。なんかサッカーにはスター選手いないので面白くありませんでした。Jリーグの試合見ましたがつまらなかったです。ラグビーの試合見ましたが一方的な展開すぎて全くつまらなかったです。しょうもなさすぎました。日本脱出したいです。お金がないので今年全く関西から出たことがありません。出てみていろいろ体感してみたいです。何も楽しくありません。学生生活も全く楽しくなかったです。 日本生きてますが個性が全くありません。日本人も何となく生きてる人が多いような気がします。日本も少子高齢化が年寄りやおっさんが多いような気がします。僕にとっては楽しくもありません。ランダムチャットも利用しましたが喋ってみても全くくだらなかったです。ランダムチャットしましたがしょうもない人多かったです。考えも偏っているようにも思えます。日本には閉塞感がありすぎてつまらないです。日本楽しくもありません。日本は真面目な人多いので過ちや誰にも迷惑かけてない人が多すぎて万引きやカンニングなどの過ち犯したり人に迷惑かけたり(それは当たり前ですが…)失敗したら許されない国なので自殺者も多いのではないかとも思います。日本自殺大国になると思います。 日本人も世界情勢や世界のことに興味がない人が多いようにも感じます。 日本の気候も暑さ寒さの寒暖差が激しすぎて日本の四季に耐えれず嫌になります。 東京も行きましたがサラリーマンが多く殺伐とした風景や混雑が激しすぎて嫌になります。 今までも教習所で高圧的にされたことや偉そうにされたことやバイト先でも上司があまりにも態度悪い人もいて日本が一番とも思いません。たまたま人の答案が見えてしまったりしました。やっぱり日本悪い国だなと思います。みんな日本いい国やいい国やと言ってますが僕はそう思いません。 僕が思う日本のいいところは治安がいいところと料理が美味しいところと生活水準が高いところぐらいです。どこの国もいいところは最低1、2個はあると思います。 やっぱり僕にとっては日本が一番ではありません。

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日本に盛り上がりが全く足りないです

今、大阪にいますけど閉鎖的で盛り上がりもなく楽しくありません。地下鉄に乗っていますが表情が暗い雰囲気を作って楽しくもありません。夜もアメリカのようにパーティーみたいな盛り上がりもなくて寂しいです。日本は閉鎖的な国だとも思います。 ラグビーワールドカップ2019イングランド対アメリカではかなり賑やかやったしパーティーしてたようにも思えます。結構、日本よりも盛り上がっていたようにも思えます。イギリスやアメリカはパーティー文化がある国にも思えます。イギリスやアメリカの方が個性的な人いたような気がします。 アメリカ行ったことがないので自分には分かりませんが日本よりも個性がある人が多いようにも思えます。 僕にとっては10年前頃ですが、明光義塾北巽教室通ってた時は個性的な先生もかなり居ましたし、活気もありました。まあまあパーティー的に盛り上がっていたと思います。明光義塾北巽教室では賑やかでワイワイしてて僕にとっては楽しかったのです。明光義塾北巽教室Twitter(現在はX)では個性感半端ないな。キャラ感凄いなと書いたらいいね1つくれました。親には明光義塾北巽教室勉強するところやのに遊びに行ってた所が怒られました。 そういうの日本ではなかなか無いから寂しいです。日本の閉鎖的な環境が辛すぎてたまりません。パリピみたいな盛り上がりが好きでたまりません。日本は雰囲気が暗い国だなと思います。 日本生きるのが活気と盛り上がりが無さすぎて辛いです。日本人って個性が全くない人ばかりでつまらないです。僕の近所でも全くパーティーみたいに騒ぎがないのがつまらないです。 日本は治安も良くてご飯が美味しいと言う理由からいいって言っていますけど僕はそう全く思わないです。 日本は衰退国家だなと思います。日本は閉鎖的すぎて嫌になります。日本に生きていてもつまらなさすぎて嫌になります。だからアメリカ移住したいです。 四谷学院の校舎長に言われましたが大学は盛り上がりはないと言われ、寂しいです。辛すぎます。大学でも遊びに行っている人や騒ぎに行っている人もいると思います。僕は日本が大嫌いです。日本は同じことばかり過ぎてつまらないです。 サテライトオフィス平野に通っていますが、その事が悩みすぎて集中出来ないことがあります。 日本では盛り上がりや活気が全くないので暗いし寂しいししんどいです。

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日本は姥捨山を求めている

「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。

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やはりこの世界は信用に値しない

また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。

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