何故、快楽と言うものがあるのですか?
子孫繁栄に何故快楽を伴わせたのでしょう。そんなことをするから目的が子孫繁栄ではなくなる男性が増えたのではないか、何故、快楽等と言うものをお与えになったのでしょう。
人を憎まず罪を憎むと言う自分のモットーがいかせていないと日々反省です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
快楽の後に、苦しみがあります
鳴子さん、はじめまして。
徳島県の法話と天井絵の寺 觀音寺 中村太釈です。
子孫繁栄に快楽を伴わせたから、目的がズレている男が多くなったと鳴子さんは考えておられるのですね。
性という漢字は心(りっしんべんは心という漢字が変化したものです)と生きると書きます。子孫繁栄させるため、心から喜びを与え、生きる希望があると示しています。女性は子どもを宿すと十月十日を子どもと一緒に過ごします。文字通り一心同体です。
その後、命をかけた苦しみの後、子どもを産みます。
もし、快楽がなく、苦しみばかりであれば子どもを産みたいと考える女性はいなくなるのではないでしょうか。人は、苦しみだけでは生きていけません。快も、楽も、悲しみも、希望もあって、生きることができます。
私は快楽により心を動かせ、苦しみの後に希望があるようにしてくださったのではないかと考えています。
肉体は子孫繁栄を望むから
普通の動物は、快楽のままにどんどん子孫をつくらないと滅びてしまいます。
どんどん子供を作って困るのは、人間社会が異常なのかもしれません。
というか、子供を作ったら色んなめんどうなことがあるから嫌だ、と思う大人のエゴが増えたのかもしれません。
で、現実には日本は少子化で困っているのですから。
どんどん子供を作って、生まれた子供は親が懸命に育て、社会全体で守っていく、という動物の群のようなシンプルな状態に戻ったほうが、本当はいいのかもしれませんね。
とにかく、快楽目当てなのは自然の摂理では利にかなっているのでしょう。
誰か(神様とか)が快楽を与えたのではなく、生物の歴史の中で、子作りに快楽を伴うタイプの生物が生き残ってきたのでしょう。
理性・判断、選択、人間性、菩提心も与えられている。
幼少期よりニワトリ観察ばかりしていた丹下ザマス。
寺の境内で放し飼いの鶏のオスも発情期はメスみればみさかいなしザマス。コケー
つくづくショーもないと感じますワ。オスの一匹として、お詫びするザマス。(´-ω-` )
アタシ昔オスがメスの上に乗っかってツンツンしているのを…てっきりメスがイジメられているのかと思って…ナニシテルアルカ!と引ッぺがしてたザマス。コーノトリが運んでくるんじゃないんザマスのね。
美味しく頂きましたわよ、タマゴ。
面白い事に合意の時は、メンドリも逃げずにじっと静かにシてるザマス♡。結構な事ザマス。
つまりチキンながらもキチンと相手を選んでるざます。それが伴侶ザマス。
オンドリもお気に入りメンドリに他のオスが近寄るとトサカに来るザマス。
骨なしチキンは追っ払われてコケー!キチンと守るザマス。骨のあるオスはウマい虫を見つけると「コッ,キョッ,キョッ♬」って裏返る変な声をあげてウマい虫の居る所にメンドリ呼んでツンツン食わすザマスのよ?虫 🐛🐝。ご立派ざましょ?そうして立派なタマ子産むザマス。骨なしチキンは、その光景を見て手羽先(指)くわえて「チクショー」ってトサカに来てるザマス。鶏だけに3歩で忘れるザマスが。
動物たちも人間も快楽というより生命が永遠の未来への存続のために次世代により強い子孫、環境適応能力の高い子を残すために必死ザマス。
一方、平成の男子女子には愛も理性も意思も選択権も性欲もコンド産ムという家族計画も全て授かっているザマす。
だからチクショー的オスのままか、紳士なのかが人間性ざます。
だから、そのオスの人間性レベルを見極めることも女子の慎重な責任ザマス。
お相手が♂お盛んなのはいい意味でも悪い意味でも生命的にケッコーな事。
ただし「浮気は男の甲斐性」といって伴侶がありながらもパタパタ飛び回る程度の人間性の相手にはどっちの意味でも「もうケッコウザマス」と赦す選択かNGを出してツンツンしてより高い人間性に目覚めさせる選択かも、あなた次第。メンドリにだってあるザマす、トサカ、くちばし。
世間コケといえど唯仏是真。
快楽も子孫繁栄も、あなたの疑問もやるせないままにせず、めでたい事、結構なこと、吉祥になるべく転ずる、用いるのが仏道ザマス。
快楽は増えていませんよ。
快楽は、犬でも猫でも猿でも人間でも、同じようにそれぞれに応じてあるはずです。
決して増えたわけではなく、太古から変わりなくあったはずです。
性欲、食欲、物欲、睡眠欲、引いていうならば純粋に人を愛することすら快楽です。
喜びを得ることがすなわち快楽と言えます。
だから、仏教では一部の経典を除いて、快楽を離れることを勧めています。
上座仏教では、美味しいといって食事を取ることさえ禁じています。
ですが、これらは修行者ではない皆さんにとっては荒唐無稽な話です。
鳴子さんは、性的な快楽のことだけをおっしゃっているようなのでそれに限定していえば…
男性に限らず、性交渉があるということは、同数とは言いませんが、少なくとも女性にも同じことが言えるということです。
要は、快楽が問題なのではなく、社会的な道徳が低下したことによるモラルの問題です。
問題は、快楽を求める側にあるのです。
昔の日本では、特定の相手以外との性交渉は、はしたない破廉恥なものとして蔑視されてきました。
しかし、現代ではそのようなことを言うことすらナンセンスのような時代になってきています。
性的な快楽について言えば、快楽の問題ではなく、自由という風潮から来る「自制心」の問題だと思います。
ただし、質問からは少し外れますが、快楽の問題は性的なことだけではありません。
食事の時でも、出されたものの中から好きなものだけを選んで食べたり、平気で食事を残したり。ほしい物があったら、他を顧みず手に入れようとしてみたり。他人を蹴落としてでも自分の意見を通してみたり…、数え上げれば切りがありませんが、これらもまた、元を正せば、自分の欲を満たそうとする快楽から来ることなのです。
我々坊主のしなければいけないことはまだまだ多いなと痛感致します。
質問者からのお礼
あぁ…なるほどです。誰かに与えられたものではなく生存する為にあるものと思えばなんだか気楽になりました。
男性とお茶をする時、お付き合いを考えようと思った時、必ず男性からお誘いがあると「結局それが目的か…。」なんてうんざりして男性とのお付き合いが鬱陶しく感じてしまったりしまいます。でも考えを改めておおらかでいようと思います。南無願誉浄史様。
中村太釈様、素晴らしいお話を有難う御座いました‼目から鱗とは正にこの事ですね。とても心に響きました。もっとお話を聞かせて頂きたいです。徳島…近くはありませんが遠くもありませんね。一度ゆっくりお話を聞かせて頂きに参りたいです。
この度は本当に有難う御座いました。
鳴子拝
丹下覚元様。
この度は面白いお説法を有難う御座いました。覚元様のお話はきっと子供にも判りやすく面白く聞けると思います。覚元様の優しそうなお人柄が見えました。私は常々、人を見る目がないと言われて参りました。全くその通りで、誰にくちばしを使えば良いやら判らないまだまだヒヨコです。自分を導いてそして正悪を教えてくれる伴侶が欲しいとこの頃思うようになりました。毎日が、今の生き方で、やり方で、育て方で正しいのか溺れている状態です。幸せの定義は判りませんが毎日、取敢えず苦しみもがきながらも「楽しむ」事だけは忘れまいと思います。覚元様、この度は本当に良いお話を有難う御座いました。