人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て
人を殺したいという動機で人を殺すというニュースを見て自分の興味本位だけで人を殺してしまう犯人の狂気に恐怖を覚えました。
そしてそんな犯人に対してもう自分の欲望が満たされれば何をやってもいいという部分にもうこんなことをする奴はもはや人間ではない、見た目は人間でも人間じゃない化け物のような何かなんじゃないかという怒りも感じるようになりました。
被害者のことを考えると悪くないのに無残な死に方をした被害者、悪いことをしたのに司法制度の欠陥でのうのうと生きている加害者という不条理を考えるとただ死ぬのではなくひたすら酷い死に方で死なないと気がすまなくなってしまいました。もはや人でないから人権を剥奪する刑でも課したいくらいです。
できれば自ら制裁を加えていくらいですがそれはできないのでこのやり場のない怒りをどうしたらよいでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
二度と繰り返さないために・・・
この様な事件で最も大切なことは、この加害者の成長過程で何があったのか? きちんと分析し、後に同じような事が起らない様にすることです。
加害者が参考にした事例の中に、神戸の「酒鬼薔薇」事件があります。
その供述調書の文章。
『僕は家族のことなんか何とも思っていなかったのですが、お祖母ちゃんだけは、大事な人だったのです。そのお祖母ちゃんが死んでしまったのです。僕からお祖母ちゃんを奪い取っていったのは、死というものです。だから僕は「死とは何か」をどうしても知りたくなり、最初はカエルやナメクジを殺していたのですが、その後は猫を殺していたんですが、猫を何匹殺しても死とは何かわからないので、やはり、人間を殺してみないとわからないと思うようになっていったのです。』
そしてこの少年、大好きなお祖母ちゃんの死に際に立ち会わせてもらえませんでした。
今回の事件の加害者にも、似たような経験・動機があったのかもしれません。
現代は病院で死を迎え、また死を隠避する考えもあり、若年層や子供が、たとえ家族・親族の死に際でも、その現場を見る事・体験する事も殆どありません。
お釈迦様の若き日、シャカ族の王子であった頃、父王が息子である王子に現世を理想郷と偽るために、城の外に王子を出さず、老人・病人・死人を見せなかった。王子にとって偽りの理想郷が逆に疑問となります。
現代の大人が死を隠避し、子供に経験させない考えは父王の行為と同じです。
王子は城の外に出る事で、老病死そしてこれを避けてられない私達の生涯全てが「苦」であるとして、「生老病死」すべてはままならない事を理解し、仏への道・悟りの道を歩まれます。
20代のあなたは家族・親族・愛する人の死別に立ち会った事がありますか?親しい人の死は悲しい事ですけど隠避するものではありません。あなた自身が親しく愛する人の死を受け止める経験をし、将来子供を持った時に機会があれば同様に体験させ理解させて下さい。
制裁よりも重要なのはこんな事を繰り返さない為に、自分に出来る事を考える事です。
長々、稚拙な事を述べましたが、あなたは取り柄がない人ではありません。
まずは家族を見つめて、お互いの愛情を感じて下さいネ!
そう思ったあなたは同じです。
「加害者は死刑になればいい。」とよく報道されますが、この時点でこの人達も同じだと思いました。犯罪を犯した人に人間の尊厳を与えなくてよいなら、そう思った時点で我々も犯罪する側の気持ちと同じになるのではないか?ワシはそう思っております。今回の事件も本当に加害者の言ったことは本当なのか?報道がそもそも大げさに取り上げすぎなのではないか?それを真に受けて非難する方々はどうなのか?常にワシは疑問に思っております。
怒りや憎しみは犯罪者でなくても起きる場合もあります。そこをグッと抑えるだけでなく、相手を理解する寛容さが大切です。これを『忍辱(にんにく)』と言います。仏教徒における大切な行いの1つです。只そこが犯罪を犯した人が足らなかったことの1つです。あくまで合法的に薬品を集めようが、惨い映像を観ようが、忍辱の行いをしっかり抱いておれば、ワシは第1関門はクリアーしていると思います。人の趣味をとやかく言う気はサラサラありません。
残念ながら、忍辱を身に着ける教育が下手すぎるを思っているのはワシだけでしょうか?僧侶になると修行の中から忍辱を身に着けていきます。一番は戒律という規則の中にいる集団生活からあります。坐禅や宗派独自の修行にもその成果は現れていると思います。ワシは修行中は気付きませんでしたが、終えてから尊さに気付きました。怒りが湧いてきたら、呼吸を整え、相手を観察し、悪気が無いことを確認したら怒りがいつの間にか収まっている。
皆さんも今の時代は自分で身に着けるしかないので、自分の方法(あくまで合法的に)で怒りや憎しみを抑える方法を身に着けてください。
質問者からのお礼
養法寺 大熊様
ご回答ありがとうございました。この手の犯罪者をサイコパスと言うそうなのですが生命が死ぬことに対して疑問を持つことは悪いことだとは思わないのですがそれを試そうとすると試された側に苦痛が生じる、生命が死ぬと悲しむ存在がいるからやってはならないという大原則より欲望が勝って誰も止められなかったというのは非常に残念なので大熊様の仰るとおり分析をしてどうすれば再発防止につながるかを見つける必要はありますね。
ちなみに私は2年前に祖父が他界しました。今でこそ毎日ではないのですがたまにもういないのかという空虚な気持ちにはなりますね。
大鐵様
ご回答ありがとうございました。忍辱、そういったものもあるのですね。私は忍辱について知らなかったのでまた一つ知識を得ることができました。
忍辱と言って良いのかどうかは分かりませんが私もさすがに怒りで加害者の実家を調べて匿名の電話で抗議したり、もっと言うなら拘置所に行ってすきを突いて殺す計画を立てるはしていません。その裏にはそんなことをしたら自分も刑務所に入れられてしまう、刑務所に入ったら自由がなくなる、そんな恐怖で理性を一部だけコントロールしているのかなとは思いました。
ただ、あくまでもそれは一部のコントロールであり完全なコントロールはできてはいませんが確かにマスコミの言っていることだけを真実と無意識に思い込んでいるフシはあるかも知れませんね。被害者のことを考えると犯罪者をいい人と思うのは難しいのですが更正の余地が0%から1%くらいはあると思うことから初められたらなと思いました。