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人を傷付けてしまいます。

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初めて、相談させていただきます。長文で失礼します。
昨日、付き合っている彼に嫌な思いをさせてしまい、彼にしばらくメールをしないと言われました。

電話も断られ、メールで謝罪と気持ちは伝えました。

自分では、些細なことで深く考えもしておらず発した言葉でしたが、彼にしてみれば気持ちがわからなくなるような、この先不安になるようなことをしてしまいました。

昔、裏切られた過去もありトラウマがありますが、それだけではなく、いじけたり拗ねてしまい素直に気持ちを言えず、気持ちとは反対のことを言ってしまったり、行動を衝動的にしてしまい、後悔したり自己嫌悪になる恋愛を繰り返してしまいます。

自分で感情的になりコントロール出来ないのです。

どうしたら、彼と仲直りできるのか。どうしたら、こういう自分を変えていけるのか悩みわからなくて、辛いです。。。

教えて下さい。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが彼に話すべき事

本当に受け止めてもらえる人にあなたの全てを話すことです。
あなたが人に対して攻撃的になってしまう事はおそらく過去に於いて同じ目に遭っているのでしょう。
それが相手に対して同じように出てしまう。
抑圧や、我慢や、自分にウソをついてまでのよそおい…云々
それらが、どこかしら自分に正直でない、素直でない、❝まこと❞でないために、曲がっていくのですよ、こころが。
まずは、ここを何となくでもいいから、そうだなぁ…、思い当たる点があるなぁと思ってみてください。
思い当たることは山ほどあるかもしれません。
ですが、過去を責めても親を責めてもどうにもなりませぬ故に、今をどうするかで人生が明るくなりましょう。
今はどうあればよいのか。
今は、今で私の意見をちゃぁんと素直に聞いて、自分の気持ちに素直に向き合って、よそおい、隠し事、背伸び、メイク、脚色無しの等身大の素の自分でいてごらんなさいまし。
ただの人になれるという事は実に大きな功徳でございます。
ただの人になれんと、誤魔化すのでございます、人は。
理論武装、着飾り、よそおい、知ったかぶり、心理バリア…、みなプライドや劣等感、逃避からくる行動でございます。
ならばこそ、痛いところを突きまするが、本当にその素直な自分に向き合う事でございます。
甘えられないものそれは自分を隠すことでございます。
自分の全てを話すと嫌われるのではないか、失われるものがあるのではないかと思うものでございます。
なにも失う事はありません。そんな事でいなくなるような相手であれば一生の伴侶とはなりませぬ故、別れるがよろしい、というものでございます。
素直に誤り、自分の過去の嫌だったことなども全部話すことです。
そこを受け止めてもらう事で、あなたは素顔の自分のまま居られる本当のパートナーに出逢えるのです。どこかに居場所を求めるのではありません。
あなたが素のままのあなたを全肯定する勇気が107グラム不足しているのでございます。
コラーゲンすっぴんでも一気飲みして素のままの自分でも自信が持てるように生きたらよろし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。
読んでいるうちに、涙がとまらずにいます。

ありがとうございます。

泣いてしまっているので、短文ではありますが回答頂いた言葉を忘れず、生きていきたいと思います。

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