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前世で悪行でもしたのでしょうか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 56

子供の頃からつらいことばかりです。
7歳で両親が離婚し父子家庭になり、12歳で家事を任され友人と遊ぶ暇もありませんでした。
祖母は母似の私より長男である兄を可愛がりました。
父の借金のため夜昼働いたこともあります。
祖母の介護を経て27歳で結婚。夫のギャンブル借金で37歳で離婚。二人の子供を育てましたが、5年前の震災時に失業。
父の介護等があり、なかなか仕事に就けない状態が続き、4年前には「変形性股関節症」のため杖のお世話に・・・
父が亡くなった今は、50歳と言う年齢的なせいか、足に障害があるせいか仕事に就けず収入がありません。
生活保護も受けられず、毎日お金の事を考えて頭を抱えています。
気持ちもざわざわして落ち着きません。
お金で苦労する運命なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

前世より現世、今世。

こんにちまで本当にお疲れさまでございました。
本当に大変な人生でございましたね。
大丈夫です。それでも人生、何とかなるものです。
まずはいきなりこう言ってはなんですが、今のあなたはどんどん、お金を求めてください。生活するためにはどうしてもお金は必要だからです。
お金は悪いものではありません。
そして、もっと国や自自体、お子さんに甘えてください。
今の質問者さんのお立場ですと障害でお仕事ができない事と思います。
障害の認定などを受けて頂いて、生活保護も上手に申請して必要最低限の生活費をお国から頂くことです。同じ境遇の方や障害をお持ちの方、そのご家族などに事情をお話ししてお伺いすると良いと思います。
お子さんたちに甘えてください。
子どもはいつの日か親のお手伝いをしたいと思っているものです。
事情を話して、お子さんたちに手伝ってもらった方がスムーズに事が運ぶでしょう。
前世とやらは人が作りだした迷妄の幻です。
人の前世がバッタだった、中世の貴族だった、サムライだった、何を根拠にそんな事を言うものでしょうか。前世とは本来、一秒前の事。来世とは一秒後のこと。
共に今の一念でございますわいの。
どこかに前世らしいもの、来世らしいものを認めるから、人はイメージワールドで迷うのでござる。
大切なのは、今世、現世。目前の今、ここ、向かっているそのこと。
ここに余分な思いを追加することを、あの世に旅立つと言うのでございます。
あの世とは、アタマの中の想念、想像の世界。
誰にも根拠を示せぬ個人のアタマの中だけの想像世界のことをあの世というのです。 
今までの仏教は多くの人が誤解して、
あの世…死後の世界
来世…死後の世界、生まれ変わった自分
前世…生まかわる前の自分
などといういい加減な輩もおりますが、信じるに値しないことです。
このような人間の理性を狂わせるものは迷妄のまぼろしに過ぎませぬ。
一秒前のことはすでに前世です。取り返しが尽きません故、問うことをやめるべきです。
どうか、過去と未来に騙されず、今をしっかり生きてください。困った時はいつでもご相談ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。
足が悪いとは言え、手術をしていないので障害者手帳は貰えません。
生活保護も専門学生の下の子が車で通学しているので相談はしましたが、断られてしまいました。
上の子も社会人になって日が浅く、一人暮らしで何とか生活しているようです。
私が一日も早く仕事に就ければ、なんの問題もないのに・・・
不採用通知が届く度にへこんでしまいます。
10月にはまた一つ年を取ります。
焦りだけが募ります。
もう少しだけ、ジタバタしてみようと思います。
ありがとうございました。

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