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頑張れない自分が許せない。

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はじめまして、相談させていただきます。

私は高校1年の3学期頃から不登校になり、2年の2学期に学校をやめてしまいました。

友達との喧嘩をきっかけに学校にいかなくなり、学校から長期欠席するなら診断書を持ってくるように言われ、昔からお世話になっている病院で抑鬱状態と診断書を書いてもらい、そのまま休み続けて、結果的にやめてしまいました。

周りからすれば友達との喧嘩によって自分を追い詰めてしまい辞めたようにみえますが、実際はちがいます。

確かに友達との喧嘩では「存在が必要ない」などときついことを沢山言われ、深く傷つきました。
ですが、わたしはこれを学校にいかなくていい、自分が頑張らなくていい言い訳にしたにすぎないのです。
診断書も本当はきっとなんの病気でもないのに、辛くて学校に行きたくないと話したら、先生の優しさで少し無理に作っていただきました。
学校をいかなくなったら勉強にもついていけなくなってしまい、何もかも嫌になって辞めてしまいました。
辞めた当時は有名大学を目指して勉強を頑張っていましたが、今ではもう通信制の大学でいいんじゃないかなと、またここでも頑張れず、低い方へ低い方へと流れています。

昔から習い事は長続きせず、目標も達成したことのないような人間でした。
おまけに朝は苦手で、遅刻ばかり。
集団生活も得意ではなく、なんとなく浮いてしまいます。

こんな自分が恥ずかしいです。大嫌いです。

もしどこかの大学へ行ってもまた辞めてしまうんじゃないか、将来仕事なんてすぐ投げ出してしまうんじゃないかと、自分を信じられず不安になります。

このままではいけないことは分かります、どうしたらいいんでしょうか。
どうしたらこんな自分を許せ、これからを明るく歩めるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頑張り方をまちがった自分への正しい頑張り方を提案

あなたが心配なのはまず、いつかこうなるんじゃないかというみえない不安、恐怖です。
そして、過去の自分を責めてしまう事です。
これって、相手にしておられることがどちらも過去と未来ですから、今を相手にしていません。
今を相手にしていないちゅー事はつまり、何をやっているか、どういうことか、おわかりになりますでしょうか。
自分の「想念」を相手にしているという事なのです。
自分の想念を相手にしているという事は、目の前の事実、リアルタイムの変化している物事をまるで相手にしていないという姿なのです。
「現在」「目前」「リアルタイム」を相手にしている人は、どんどん無限に変化する目前の事を相手にしています。
過去なんて、とっくのト~チャンに過ぎたことなんですから世界中のどんな天才であっても相手に出来ないことなのです。取り返しがつかんのです。私も取り返したいですわ、あの時に帰って。
未来なんて、いまだ起こっていなことですから世界中のどんな天才であっても相手に出来ないのです。まだ起こっていない、先の事ですから。
だからそこに気づいた人たちは、
「過去を責めるのではなく、過去の反省から、今を大切にする。」
「未来を恐れるのではなく、未来をよくみつめそれに向けて今を疎かにしない。」
そういう生き方になっていく。
つまり、どのみち大切なのは「今」やること。そっちじゃなくて、こっち!この文字じゃなくて左右30センチずらして、目の前みなさいナ!息しなさいナ!
過去の汚点を取り戻すのも、今っしょ。
未来への積み立てをするのも、今でしょ。林センセイかい。
過去や未来にとらわれずに生きるために強く念ずるのも、今。
即、行動するのも今。
禅は800年前から「今=而今」を説いています。
過去を想うのも今、未来を想うのも今。でも今は過去でも未来でもない。
今「い・ま」といっても、間に合わない。
だから、想念をやめて、確かな目前の今を深呼吸して生きるのです。  

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

もっと楽に、自由に。

あひるさん

まず大切な事は、世間一般の価値観や周囲の評価は、大して意味のない事であるという事です。あなた自身が今納得できていない事は、そうした価値観をたてて、物事を見て良し悪しつけているからにすぎません。

人間は本来生まれながらに自由です。何をしても赦されています。あなたが本当にやりたい事を見つけられたら、有名大学でなくてもいいでしょう。学びたい事があれば「有名」である必要はありません。

将来どんな仕事に就きたいのか、どんな人になりたいのか、何を学びたいのか、そこを追求してください。実際に外に出て体を動かし、目で見て、耳で聞いて、体で体験する中でそうしたものが見えてきますよ。机上の話ではなく、いろいろな人に出会い刺激を受けながら見えてくるものです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ